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「失礼だから」という日本人らしい呪縛から解き放たれた仕事現場に目からウロコポロリ

昨日、とある取材で秋葉原にある『3331 Arts Chiyoda』に行きました。
ここは、民間民営のアートセンターなのですが、ぼくが40年前に通っていた公立中学校の校舎を使っているんです。たまに興味のあるアート展を観に行ったりするのですが、昨日は取材だったので中学時代の話をしながら廊下を歩いていたら、突然当時の衝撃映像が頭の中に現れました。

時は1979年、校内暴力全盛時代。

日本で「校内暴力」という場合には、主として1970年代後半から1980年代前半にかけて、多数の中学校(多くは公立)と一部の高等学校で発生した暴力事件を指すことが多い。
日本において校内暴力は、1970年代末期から社会問題として注目されるようになり、暴力事件数にピークを迎えた。
1980年には、中学校を舞台にしたテレビドラマ『3年B組金八先生』第2編で、校内暴力が主題として扱われた。
出典:Wikipedia

そう、『金八先生』第2シリーズの「腐ったミカンの方程式」の回の加藤優(直江喜一)が逮捕されるシーンは衝撃だったし、金八先生(武田鉄矢)が泣きながら「われわれはミカンや機械を作っているんじゃないんです! われわれは人間を作っているんです!」と訴えるシーンは、日本のドラマの歴史の中でも名シーンのひとつです。

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このドラマの1年前の1979年に中学1年生だったぼくは、休み時間に廊下の人だかりに何だろうと近寄ってみたら、3年生のリーゼントでボンタン( 幅広のズボン )を履いた不良の3人の先輩たちが何かに思いっきり蹴りを入れていました。
何と、それは廊下の床にうずくまっている教師だったんです。

そんな不良の先輩たちが就職したのはバブル真っ只中の1987年で、その頃は就職する学生の超〜売り手市場だったので、当時は10月1日の内定式に囲い込みで内定者が他の会社に流れないようにハワイに連れて行ったりする会社もあったほどすごい時代でした。

ぼくが通っていた中学は公立でしたが、けっこう学力は高く、偏差値の高い高校に入る人が多く、そうなると大学も良いところに行って、そこから大企業に入るというのがだいたいの流れでした。というか、大企業に就職しないと周りに認められない感さえありました。
不良たちも、リーゼントを七三分けに、ボンタンの学ランをスーツに変えて。

バブル期の仕事は、得意先を接待、接待、接待で、クラブ( 女性が隣に座る方の )に行ってドンペリポンポンポン!な感じで、お得意様命!という世界でした。ぼくのいた広告代理店でも、営業は昼は毎日何回も何回もクライアントに通って、夜は接待しまくっていました。

メールどころかケータイ電話を持っている人もいない時代、会社からの電話で連絡するだけだと「失礼」にあたるという理由から、毎日何回も通っていたんですね。
資料とか持っていかないといけないから、まぁ、そうなりますよね。

その後数年すると仕事でもメールで連絡を取り合うようになって、クライアントに通う回数はある程度減りましたが、打ち合わせはやっぱり対面でやらないと「失礼」だからということは続き、なんと、このコロナ禍の直前まで、何十年とその対面打ち合わせという風習は続けられていたのでした。

コロナ禍で、人が集まってはいけないというどうしようもない状況になって、ZOOMなどのリモート打ち合わせが普通になりました。

対面打ち合わせまでの往復の時間がなくなり、交通費がなくなり、暑い中を移動しなくてよくなるという良い事づくし。

目からウロコポロリ


それまでもテレワークは地方や海外の相手とはやっていたものの、奇しくもコロナ禍で往復日帰りで行けるところは行って対面しないと相手に「失礼」という呪縛から解き放たれたことは、良かったと思います。
仕事環境がかなり前進しました。


最近は、商品撮影をリモートでやることも多いのですが、今までの撮影の進め方をよくよく思い起こすと、カメラマンが撮影したものをスタジオでカメラマンのモニターでチェックして、修正点を伝えて、また撮影したものをモニターで見て…というやり取りを何回も繰り返すのですが、別の場所でリモートでカメラマンから連絡がきたら自分のPCで写真をチェックして、修正してもらっている間に別の仕事をしたりするのは、ものすごく効率がいいんです。
人物撮影に関しては、現場にいてコミュニケーションを取りながらやることはある程度必要だと思うので、撮影によって臨機応変にやり方を変えていけばいいんだと思います。

まだまだ仕事のやり方で、今までの呪縛から解き放して変えていけることはたくさんありそうですね。






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