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しあわせのおすそわけ

妹からメールが来た

今朝、たまごを割ったら3つ子だった~
いいことあるかな(*^^)v

わたしはすぐに返信

いいことあるかなって思ったときに、使わないと!

なんとなく、その場で願い事をしたら適う気がするから・・・・

いいことあるかな…で終わらせてしまったら、その幸運は一瞬の悦びにしか過ぎない。もちろん、それでも全然構わないのだが、今朝の「いいこと」をきっかけにしあわせを引き寄せたい!(…と、思いませんか?)


例えば自販機で「当たり」が出たとする。そんな時、あなたならどう受け止めるだろうか・・・・

「ラッキー! もうけ」

と、その場で偶然賜った幸運を楽しむのか、

「こんなところで運を使っちまった」

と、小さな幸運に舌打ちするのか、あるいはなにも感じないのか

前者は、小さなしあわせを自分のために使い「今日はいい日だった」と一日を振り返ることができるだろう。考えすぎるならば、なにか嫌なことが起きた時、あの時当たったからか…と折り合いをつけるかもしれない

では、後者は?

偶然舞い降りた幸運をなかったことにしたい? なんだったらのちにやってくる幸運に上乗せして大きな喜びを味わいたい…とまで思うのかもしれない。だとしたらこの小さなしあわせをどう使うべき?

いいことがあるとひとに言いたい。今朝の妹のように「こんなことがあったよ~」「すごくない?」「まじヤバイ」等々、ちょっと自慢したくなる。でも自慢しただけだとなんだか嫌なひとみたい?

自販機で「当たり」が出た。ラッキーだけど、こんなところで「運を使ってしまった」ら、いざという時に「運を使えない!?」かも知れない。あぁ、わたしったら・・・・じゃぁせめて自慢せずに胸にしまうのが正しいのか。いや、いっそのことこの幸運は「自分のものではない」ふりをしてしまおうか、どうせ黙っていられないのならこの幸運をだれかと楽しむか・・・・

自販機で「当たり」が出た。なかったことにできないのなら、いいことがあったから「おすそわけ」するね…と、まわりを巻き込んでしまおうか。最初からなかったものなら、手元になくても「損」ではない。損してないのに隣にいただれかも「ラッキー」で、あげくしあわせは分散されたにもかかわらず『倍』になる。しかも、おすそ分けをしてもらっただれかから「好印象」の称号が貰えるかもしれないではないか。たったひとつの小さな「当たり」からこんなにも「よかった」が生まれる

もしかしたら、心の黒い人間は「当たったならくれりゃいいのに」「なんだよ、自慢かよ」って、機嫌が悪かったなら「こいつケチだな」とまで思うひとがいるかもしれない。自販機で当たっただけの小さなラッキーで、最悪、嫌われてしまう可能性すらあるのだ。「そんなの知らね~よ」って、でも、世の中なにが起こるか解らない

塵も積もればマウンテン・・・・なわけだから

たった一滴の水滴でも、時間をかければ石を割ってしまえる力になる。そんな気が遠くなる心配…って思うかもしれないけれど、生まれてから今日に到るまでにいくつか石が砕けているかもしれない…と思ったら、小さなしあわせをおすそ分けしてまわりの空気を穏やかな状態にしておきたいと思ってもおかしくはないでしょう

だから、いいことがあったらおすそわけ・・・・

「いいこと」をひとり占めするひとは「悪いこと」もひとり占めすることにもなるんじゃないかしら? 悪いことは拡散されたらいい迷惑かもしれないけれど、だれでも家族の痛みは「変わってやりたい」って思うはず。実際変わること(痛みを感じること)はできなくても、わかってあげられれば労うことはできるし、孤独を感じることもなくなるんじゃないかしら・・・・そうしたら、悪いことについてくる悲しみや苦しみもそう長くは続かないよね

「おすそわけ」したら「いいこと」はまわりのひとにも蔓延して、みんながほくほくすれば「よかったね」が生まれて、仮に「悪いこと」が起きても分散するからすぐに和らいでいく。やっぱり最後には「よかったね」がやってくるはずなの

しあわせは掛け算で、ふしあわせは割り算ね

難しいことは解らないけれど、みんなが笑顔ならそれでいいと思うの
「しあわせ」は分け合っても小さくならないし、おすそ分けしてもなくなるわけじゃない。ひょっとしたらドラえもんのポケットなのかもしれないね





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