遠回りこそが人生

近年、コスパやタイパ、ミニマリズムなどが流行っている。これらの価値観は要は「出来るだけ楽をして生きたい」という意思の表れなんだと思う。

頑張った分だけ報われる時代はちょうど1億年前に終了しているので、「頑張っても無駄」という認識及び努力に対する燃費の悪さみたいな感覚は、おそらくゆとり世代以降の人間が共通して持っているのではないだろうか。

ゆえにそれらの価値観が一概に悪いとは言い切れないし、その気持ちも理解できなくはない。かくいう私もそこそこな効率人間である為、一時は過剰に効率を求めて生きていた。

しかし、よく言われているように、効率を求めた先にあるのは生への無価値感だけ。効率を極限まで求めると必ず「生きることは無駄なこと」という結論に至ってしまう。
もちろんそこで、「分かった。そういう結論なら仕方ない。それを受け入れましょう」とはならない。なったらなったで潔いなとは思うけども。

ゆえにその結論に行き着いた人間の多くは「生きることは無駄なこと。だからこそ出来るだけ人生を楽しんで生きよう」という価値観へシフトしていく気がする。いわゆる陽気なニヒリズムってやつだ。そしてその瞬間からコスパ大好き人間にとっての第二の人生が始まるのかもしれない。

またコスパ志向の問題点として、人間的な幅が広がらないことが挙げられる。コスパ人間は楽な方法を使って最短ルートでゴールを目指すため、苦労や努力を知らないまま歳を重ねている場合が多い。
しかし、そうなるといつまで経っても人間的な厚みが出ることはなく、何歳になっても薄っぺらい意見しか言えない残念な大人になってしまう。
50歳にもなって「コスパが〜」とか言ってたら、さすがに周囲の人間も引くと思う。

またそもそも論として人生にゴールはないという前提も存在する。いくら効率(楽)を追求したり、最短でゴールに到達出来たりしても、当たり前だがその後も人生は続いてく。そのゴールはあくまでもその時点でのゴールに過ぎず、そこで人生は終わらない。じゃあ、そのあとはどうするの?という新たな問題が発生してしまうというわけだ。
人生百年時代と叫ばれている中で、時短ばかりを求める生き方は却って効率が悪いのでは?とさえ思ってしまう。

まとめると、

コスパ志向は結果的に尻すぼみな人生になりやすく、大きく遠回りをしてきた人間に圧倒的な差をつけられて捲られるという結末を迎えやすいのではないかと。と同時に、人生全体で見た時に却ってコスパが悪いとさえ言えるのではないかと。

それでもいいと割り切ってしまえれば楽なのだが、人生はいつ何が起きるか分からない。
だからこそ、いつ何が起きてもいいようにもう少し余白の部分を作っておいてもいいんじゃないかなと私なんかは思うけどね。


人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。

徳川家康


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