群衆とは何か?|『群衆-モンスターの誕生』
「群衆とは何か?」と長らく疑問だったのが今村仁司・著『群衆-モンスターの誕生』を読んでだいぶ理解が深まった。
忘れないうちに此処に書き留めておきたい。
本書の内容
近代の哲学者たちの考察をもとに、群衆の特徴を解き明かそうと試みたのが本書である。群衆に対する知見が網羅的にまとめられており、初心者でも比較的親しみやすい内容になっている。
この本を手始めに読んでみて、さらに知識を掘り下げたいならル・ボンやオルテガに挑戦するのが丁度良い塩梅だと思う。
群衆とは何か?
本書の内容を引用しながら、群衆とは何か?を整理していきたい。
まずは群衆の特質について。
群衆の特質
増大しなければ群衆とは呼べない。
私は群衆が発生する瞬間から収束する瞬間までを体験したことがある。その時の増大の速度と爆発力には本当に凄まじいものがあった。
ドラえもんで「バイバイン」が登場する回では“栗饅頭”が無限増殖していくのだが、群衆が増大する際の恐怖もそれとよく似ている。
要はどこまで増えるか全く予想できない。
群衆は立場を問わず平等に人々を飲み込む。モンスターたる所以だろう。
群衆は密集するという性質がある。群衆は真空を嫌悪する。そして密集すればするほど群衆としての威力が強まっていく。
群衆には目標が必要だ。時にはある者を排除するため。時には権力者を打倒するため。
群衆の類型
続いては群衆のタイプについて。
この群衆の目的は殺害にある。目標を定めたらその目標を殺害するまで手を緩めることはない。最もオーソドックスな類型と言える。
この群衆の特徴は全ての者が逃走する所にある。
危機は全員にとって同一のもの。典型例は自然災害だろう。
特殊なケースが禁止群衆。
この群衆は行為を禁止された際に形成される。その典型例はストライキ。
顚覆群衆は既存の権力を打倒する際に形成される。
典型例はやはりフランス革命だろう。
祝祭群衆は宗教的祭祀、収穫祭、ポトラッチなどの際に形成される。
他の群衆とは毛色が異なるように感じるが、祝祭群衆もその特質(増大、平等、緊密、方向)は共通している。
群衆についての著者の考察
次は著者の考察について整理していきたい。
著書は群衆をただの人間同士の集まりではなく、明確な特性や目的を持った社会的な勢力と定義している。
そう言われてみると確かに、職場や学校に集まっている人間を群衆とは呼ばないし、また群衆とも思わない。しかし、それが上記のような性質を帯びると、その集団は途端に群衆へと変貌する。
これは現代日本においても当てはまる。大衆に迎合する多数派と、自立した個人として在り続けようとする少数派。
この構図は本当によく見かけるし、両者が対立する場面も度々散見されてきた。
しかし、多くの場合、少数派は多数派に飲み込まれる。民主主義国家であれば尚更だ。
現代の日本人はまさにこの葛藤の中をもが苦しみながら生きていると言えるかもしれない。
「群衆はバカ」というのは単なる俗説に過ぎず、実際は群衆にも理性が存在する。それが道具的理性と呼ばれるもの。
そしてこの道具的理性と資本主義経済との相性は抜群で、「両者が群衆化人間を量産する温床になっている」と著者は危惧する。
道具的理性の詳しい説明。
ざっくり言えば悪知恵みたいなものだろうか。群衆が内包するインテリ・ヤクザ感についてもこれで説明が付く。
群衆の生成過程。
現代社会における群衆の恐ろしさの本質はここに集約される気がする。上下左右を超え、さらに集団や組織を超え、ありとあらゆるボーダーを超えて全てを包摂してしまう。
その中で必要とあれば指導者を生み出しながら、時にその指導者すら群衆は飲み込む。
もはや群衆はただの類型に留まらず、現象や災害に近い。
群衆と群集の違い。
もし群衆に煩わされたくなければ、都会に引越すのが良さそう。
日本人が劣等民族と言われているのは、きっとこの「共同の絆」が存在しないからだろう。
権力や大衆には喜んで迎合するものの、日本人には横のつながりがほとんどない。困っている人間がいても助けないし、仲間を大切にする意識も低い。同調圧力は強いけれど共同体意識は皆無だ。
その原因となっているのが群衆精神。その観点はなかったため今回の収穫となった。
いずれにせよ、「共同の絆」の構築が日本人にとっての今後の大きな課題であることは間違いないように思われる。
まとめ
というわけで以上が本書の内容となる。
せっかくなので最後に私の経験した群衆について共有しておこう。その上でこの記事を締めくくりたい。
先程も書いた通り、私は群衆の発生から収束までを経験したことがある。その中で感じたのは群衆の表情の豊かさである。
不気味なのは終始一貫しているのだが、その中でも群衆は瞬間瞬間において次々に表情を変えていく。
祭りのような顔、神経症的な顔、強気な顔、弱気な顔、それら全てが一緒くたになった顔。
私は群衆の中で様々な顔を見た。
渦中にいる間は否が応でも臨場感とダイナミズムを感じざるを得ず、自分が自分ではなくなるような錯覚を起こした。普段の自分では考えられないような事も平気でしてしまった。
兎にも角にも様々な感情を強制的に引き出すのが群衆と言える。その際に完全にコントロール感を失ったことが私にとっての最大の恐怖であった。
その経験から分かったのは、群衆は人や場所を選ばず、ほとんど偶発的に発生すること。そしてひとたび群衆が発生すれば目的が達成されるまで事態が収束することはない。
普段は外から眺めることが多いが、中に入るととても正気を保っていられない。それが群衆の恐ろしい所だ。
この話にオチを付けるとしたら、その群衆を生み出した張本人こそ私ということである(犯罪とかではない)。
以上。
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