私には推しがいない


推し
読み方:おし
人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。
国文法的には「推し」は動詞「推す」の連用形、あるいは、「推す」の連用形を単独で名詞として用いる表現である。
近年の美少女アイドルグループのファンの中では自分の一番のお気に入り(のメンバー)を指す表現として「推し」と表現する言い方が定着しており、昨今ではドルヲタ界隈の用語の枠を超えてアニメキャラや球団を対象に「同種のものの中ではこれが一番好き」という意味合いで広く用いられるようになりつつある。
weblio.jpより  https://www.weblio.jp/content/推し

「推し」とは上手く表現したものだな…と耳にするたびにいつも思う。
好きという気持ちを具体的に表現しているのに、 どこか客観的なところがある。
そして推しという言葉の良いのは、「自分が対象を好き」で完結しているところ。
決して第三者を巻き込んだりはしないのだ。

実は私には誰か何かに一目惚れした経験が無い。好きな相手に入れ込んだことも、まして誰かに貢いだ経験など一度もない。

そもそも私はお金を使うことが苦手だ。
事あるごとに母親から「お金がない。妹も弟もいるのに。」と囁かれて育ったためだろうか。
喉が痛いときに舐める飴すらも、選ぶときには母親の顔色を伺い、美味しい味や好きな味、欲しいと思うものではなく値段で選ぶような子供だった。
そんなことを繰り返していくうちに、自分はお金をかける価値がない人間なのだと思うようになっていった。

実家を出て社会人として働き出してお給料をもらうようになって困ったのは、お給料の使い道だ。
当時の私はまだ自分には生きていく上で必要なもの以上は贅沢だと思っていて、
お給料の使い道は家賃や光熱費、最低限の自炊の食費、インターネット代。
それ以外は何に使っていいのかわからなかったし、自分が何がほしいのかもわかっていなかった。


欲がないのかと言われればそういうわけではない。
スーパーに行けば並ぶとりどりの美味しそうなお惣菜、お寿司、果物やデザート、どれも良いなと思うものばかり。
なのに何を買って良いのかわからない。どれも欲しいのに何も欲しくない。
そうこうしているうちに頭の中がぐるぐるしてして、体は疲れてお腹も空いているのに、何を買って良いのかわからなくて、閉店の時間になってしまい何も買わずに店を出る。
自分で稼いだ自分のお金なのに、何かを買おうとすると怒った母親の顔が脳裏にちらついた。
自分のお金のはずなのに、自分のために口座の残高が減っていくのがなんだか申し訳なくなってしまう。
そして、スーパーでは結局何も買わないで出たので、お腹は空いたままだった。

そんな感じで3年暮らした結果、口座の残高はそこそこのまとまった額になっていた。社会人3年目ひとり暮らしでは頑張って貯めた部類だと思う。

ある時、自分で自分を追い詰める生活にいっぱいいっぱいになってしまった。
何のためにここまで苦しい思いをしてお金を貯めているのだろう。
行きたいところもお金のために我慢、食べたいと思う美味しいものもお金のためにがまんガマン、我慢。
本当は楽しそうなお誘いや旅行、美味しいもの、きれいな服、小物、全部手に入れたかった。

だけど私には周りと違って頼れる所が無い。だからお金に拠り所を求めている。
自分の人生のためのお金なのに、楽しいことなんてなくて、ただただお金を貯めるために人生を犠牲にしていた。
そして疲れ果ててしまった。

あるときにもう自分の気持ちに蓋をする生活はやめようと思った。3年間の我慢の積み重ねは、私一人の生活ならいざというときに何とか出来そうな額になっていた。

少しずつ、毎月のお給料から自分のためにお金を使う練習をした。
暑い日にコンビニで買う冷たい飲み物、雨の日の電車代、気持ちが上がる美容室、アウトレットで買ったちょっとだけ背伸びした気分の通勤かばん。
どれも少し贅沢かなと思ったけれど、その分幸せをもたらしてくれた。
冷たい飲み物は熱くなった体を冷やして喉を潤してくれた。
雨の日の電車通勤は、体が雨に濡れるのを最小限にしてくれた。自転車通勤をしていた頃は、濡れたままの体が冷えて、体調も悪くなりがちだった。
美容室で髪の毛を整えてもらうと、自分がより良くなったようで気持ちが明るくなった。
通勤用にとアウトレットで買った鞄はコーチのものだけれど、社会人のそれなりに見えて、なんだか嬉しかった。
どれも思っていたほど高額でなく、金額以上に温かな気持ちを与えてくれた。
ああ、与えられる幸せってこういうことなんだなと雷に打たれたようだった。
そして誰かからここまでのものを受け取ったことは一度もなかったのだと思い知らされた。

それから私の自分に対する消費行動は加速していった。
読みたい本、コンタクトレンズ、自動車学校、北海道物産展、化粧品、お菓子、海外旅行、ガジェット、洋服、バッグ、スポーツジム……。
買ったら使う、ストレスになるぐらいなら高額でも買うし、必要ないならさっさと手放すをモットーに色々なものを自分に与えてみた。
支出自体は思っていたほど増えなかったし、むしろ生活やものに対する満足感が上がっていった。
お金を使って得られる体験は自分を豊かにしてくれた。かけた金額以上に満足感ある経験を得られた。
全部自分で働いて稼いだお金で誰でもない自分で決めた。

気持ちの上で「何にお金を払っているか」を強く意識するようになった。
駅から近くて広めのマンションに住めること家賃を、寒くても凍えないですむことに電気代・ガス代を、私を素敵に見せてくれる服に、お金を払っていた。
手元の買い物記録には買ってよかったの○が増えて、不要な出費はほとんどなくなった。

この経験を通して、自分の意識はより自分自身に向くようになった。
もちろん自分に手をかけお金をかける家庭で外見も以前とは見違えるほど変わった。ジムに行ってトレーニングとヨガをするようになって体力も以前よりもついたし、我ながら表情も明るくなった。
昔の方が年齢は若かったけれど、私は今の自分の方が好きだし、なんなら今の自分は推せる。
私の推しは、他の誰でもない私自身。そう思えるようになっていた。それはとことん自分自身と向き合った結果なのだと思う。

私自身は緊急事態宣言が発せられてもいつもと同じように出勤していたのと、苦い思いをしながらも貯めた貯金があるので今のところ経済的に困ってはいない。
だけど給付金をいただいたら、せっかくなので今まで経験したことのないことに使いたいと思っている。
他の誰でもない自分のために。
そして自分で推せる自分であるために。

#給付金をきっかけに