婆さんと僕の間の自由主義

11月のはじめに地元の文化祭があって、そこに習いたてのお花を展示した。初心者でもある程度形になる主題を先生に選んでもらって自分で花を選んで買ってきて、展示した。先生の言うがままにいけてそれなりのものができた。それはそれで満足だった。

地元の文化センターには大量の婆さんが集まっていた。婆さんたちは自分とは違う速さで歩き、自分とは違う言葉を使って話す。何もかもが違うようにすら感じる。それでも、一つの目標に向かってみんな必死に取り組んでいた。

婆さんは僕になにも求めないし、僕も婆さんになにも求めない。ただひたすらに水や花を運んだり、茎を切り、葉をむしり、剣山に花を刺していた。それだけのために朝から夕方にかけて婆さんが手と足を動かしていた。

婆さんとならんでいる時間はどこか心地よかった。それきっと不干渉ぎみでも共存していることだった。最近、同じでなければ敵だのような論調をよく見聞きする。そんなことはないのに、短絡的で了見の狭いバカはすぐに労力のいらない判断を下す。

ライオンキングよろしく、サバンナの水たまりは全く異なる生き物同士出水を分け合っている。それができる。のにも関わらず、同じものを身に着けて同じ言葉を話そうとする。それがきもちわるいなと強く思う。

自由主義とは相手どんなイデオロギーを抱えていようが敵対するわけではなく対話に時間を重ねることだと思う。私は相手にへりくだる必要はない。ただ、相手に鑑賞せずに、十分に距離を取りながら相手への理解を刺し続ける必要がある。

でなければ、すぐに相手を否定する。それにもかかわらず自分の成長には無関心。

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