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アートとか服が好きな人の話

最寄りの急行の駅まで車で送ってもらってる時に、母が「私は服を作るのが好きやけど、着るのとか別にどうでもいい」といういつもするな話をしてた。俺もプログラマとして働いてて、10年くらい経つけどパソコンに歯興味ない。作るのが楽しい。

学生来の友人が植物を育てたいと言っていたから二十日大根を勧めたら、「アートが好きだから繋がるものがいい」と言っていた。アートにつながる植物ってなんなのかと思いながらも話を流した。実際、生花の流派によってはカリフラワーも長ネギも使うから二十日大根も使える。無知ゆえの傲慢だと思った。

韓国が好き、美味しいもの食べるのが好き、楽しいことが好きみたいなマッチングアプリの自己紹介文の中には好きなものの紹介で溢れながらもそれぞれが消費することの話ばかりになっているなと思う。だから、お金が欲しくなる。消費しかしないから自分は形を変えない。口に食べ物を入れて尻から出すを繰り返す。

好きである対象が消費に偏ることがつまらない。何を消費したのかの話ばかりになる。それが習慣になれば作る力がなくなっていく。作った過去がなければ自信がなくなる。その習慣は人が作ることをやめる大きな要因ではあると思う。

消費は関わりの末端だと思う。ハンバーガーも今年流行りのパンツも多くの人が生産を繰り返して消費者にたどり着く。関わりの末端にいる人は関わりを成り立たせるためには必要ではあるが、その人自体は関わりで大事な伝えることをしていない。その末端であり関わりをしないことを好きになってるんだから救いようがない。

人との関わりをやめた人が、行き場のなくなった伝えたいを爆発させ、訳のわからないシャカイウンドウをしてるんじゃないかとすら思える。

私は弱者で社会は私を理解しないんじゃなくて、お前のその貧弱な能力が何も言わないからお前を理解する人がいない。そして、叫ぶその言葉の中にお前はいないから何も伝わらない。孤独から脱するために消費することを好きだと叫ぶんじゃなくて、作ることを好きになれ。

個人主義の影響もあって、自分には社会の認める個性があり、その個性があることが個人であり社会に参加するための権利なんだと勘違いしてる。消費に頭が染まってるから、消費に個性を求める。好きなものを細分化して、担当が生まれて、同担を拒否する。くだらない。確立されない個人が支える社会なんてクソ喰らえ。

黙って手を動かせ

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