オナラを作った記憶がないように

人の家でこたつに入って30分か1時間程したらお腹が温まったせいかオナラが出そうになる。このオナラを作った記憶はあるだろうか。その家に着く前に百貨店で買った手土産が机の上にある。これを買った記憶はある。たしかにある。友達の娘の年齢とアレルギーを気にしながら自分で選んで買ったものがそこにはある。

この前の仕事でも、数年前の会議でも私は怒った記憶がある。他人の考えが気に入らなかった。能力の欠如よりも、怠けるその姿に腹が立って仕方がなかった。なぜやるべきことをやる覚悟か、やめる覚悟を持てないのかと手練手管の限りを尽くして詰めてやりたいと思った。というよりもしていたと思う。

人を詰める言葉は現代社会で許されている暴力だと思う。ほとんどの場合、合法ではあるが社会から排除される。そして、人格が否定される。私のこの暴力の原動力を考える。原則、それは怒りになっている。この怒りがあってその後に暴力がある。私はこの暴力によって社会から取り除かれる。

ここで考えるべきはこの怒りは手土産のそれなのか、はたまたまオナラのそれなのかである。オナラを耐えることは求められることではあるが、それでも人が人を責める理由にはなりにくいし、何よりも社会からハブられることはない。しかし、手土産のそれだと認められれば孤独を獲得することになる。

たまたまオナラがない彼らは、オナラができやすい人を人非人として石を投げ、件の神様が何を言っても石を投げる。

この怒りの正体を医者や学者が明らかにするには時間がかかりそうだと思う。そんなことを待たずに、早寝早起き適度な運動だなと思いながらねる。

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