健康な精神は健康な肉体から

疲労が溜まってる。新しい仕事がないから安く仕事を受けたのもあるし、並行した仕事が多かったのもある。とにかく疲れてる。疲れを忘れるために夜遅くまで遊んだりしてまた疲れてる。それはその通りだと思う。もっと休まないといけない。わかってる。不安と癖から休めない。側から見れば休まないやつだし、ともすれば努力家なんてレッテルまで貼られるかもしれない。けれど休めない。

学生の時は日本を変えてこそ日本人だ。みたいな、主人公みたいなこと考えていた。働き始めて、いや働く前からわかってたことかもしれないけれど、自分の求める社会は誰も望んでない。当の本人ですら求めてない。

人がよく考え苦しみながらも正しい選択を選ぼうとする努力に満ちた社会であるべきだと思っていた。きっと今も思っている。けれど、それは疲れる。本当に疲れる。精神がではなく、肉体が疲れる。最近、西洋医学に傾倒している部分もあるけれど、考えることが続くと交感神経が優位になり消化が難しくなる。睡眠の質も下がる。考えて疲れるのは肉体だ。その肉体の上に存在する精神は肉体の疲労に伴い疲労する。

疲れた精神が善い生き方なんてできるはずがない。小学生の時にWikipediaの哲学のページでソクラテスのが言ってた善く生きることについて書いてあった。それに惹かれて善く生きたいと思っていた。きっとそれは生まれた時に自分にはないものでは実現できない夢をあきらめて、お金がなくても実現できる目標として掲げたものだと思う。

貧しくても善く生きれると思っていた。きっとできる。けれど、それはとても難しい。豊かでもとても難しい。豊かな人が簡単で、貧しい人が難しい競争に参加するのは負け戦だと思って避けていた。その結果、豊かな人も貧しい人も難しい土俵にいた。そしたら、案の定難しくて挫折してる。

別に勝たなくていいのに、負けた衝撃が強すぎて、負けた苦痛が大きすぎて、それから逃れるために勝とうとしてる。勝ち負けの場にいるから苦しいことを言葉にできても拭えない。脱げない精神を身にまとった自分が今もここに座っている。

感情を乏しくして、苦しみも喜びも感じなくなればいい。そこそこのお金がもらえる正社員になればいい。上司と社会と嫁と隣人の悪口を当てに酒を飲めばいい。ちょっとの犯罪を犯しながらも苦痛を忘れることを選べばいい。大人な生き方と名前をつけてしまって許せばいい。何もそんなに真剣に生きる必要はない。

満足な豚も不満足な人も嫌だ。満足した人間でありたい。

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