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自分ができる仕事

1週間東京にいた。東京の女子高生のミニスカートの丈は大阪では見れないほど短かった。西から東のこの距離でこれほど短くなるなら、北海道にいったらどうなることやらと日本の治安が気になった。

今回東京に行ったのは、仕事を探すためだった。結果的に直接仕事につながる話はないにしても自分の評価をたくさん聞くことができた。技術力よりかは人柄を褒められて、技術者としての自分の価値の低さは思った通りだった。仕事という意味では人と関わることが大切だとは思っているので嬉しい評価でもあった。属する組織ではなく自分に対しての評価があることは嬉しいこと。さらに、それがいいものなのだから喜んでいいと思う。

ところで、私のできる仕事は何なのだろうかという話がある。仕事がなくなる前から常に抱えている問いである。よくある話だと、ゼロイチだとかイチジューみたいな切り方があると思う。短期間を少人数で荒削りでも形を作っていく段階と、時間をかけながら大人数で洗練していくというものづくりの段階を時間で分ける考え方。それに従うならゼロイチの方が向いているんだと考えていた。

それでも、そのゼロイチにいる人たちが好きでない。見栄を張って何かすごいことをしてるフリをするのに必死でダサいと思う。イチジューがカッコよく見えるかというとそうでもない。虎の威を借る狐という一言で表せる。踏み込むなら、作られた仕組みの上で走らされてるのに得た評価を自分のものだと勘違いしているのがダサい。

自分はダサくなりたくないって強く思いながらも、斜に構えて他人にピーチクパーチク御託を並べている。それが一番ダサい。手を動かさない自分は気色が悪い。それに輪をかけて、人の生き方について自由が大切だとか雑な考え方を後生大事にしている。身動きの取れないまま、思い切った判断もできない。

孫氏の兵法について、知っている数少ないことは著者が1人ではないということと、彼を知り己を知れば云々の件がある。世間を見て何かを思って、自信を省みて何かを思っても結局この程度のことしかわからない。

ここまできてやっと具体的な話をする気になってきた。イノベーター理論みたいなのに謳われてるキャズムを超えて初めて社会に価値をもたすことができる。でもこれはさっきの話でイチジューみたいな仕事になる。それが本当に大切だと思う。社会は多くの人によって支えられてる。少数派にスポットライトを当てることが倫理的かのように感じている人が増えているけど、多数の持つ暴力は警察よろしく我々に必要なものになっている。その多数に迎合しながら、少数派は自分たちなりの生き方を見つける必要がある。

また話が逸れた。ここから理路整然とした話は無理だから強引に結論を置く。多数派への迎合と自分の役割を見定める必要がある。その中でできることは少数精鋭で動けるものづくりの初期段階であるということ。ただし価値のある初期段階を実現するためにものづくり全体を見る必要ある。その知見を得る間は少しの間社会に馴染む必要がある。それらを通して自分なりの生き方を見つけられた時に自分の仕事や生活がより良いものになるんじゃないかと思う。

その時は一緒に生きる人と一緒に過ごす犬と狭くても落ち着く家があるだろうと思う。庭には植えた雪花柳が伸ばす枝のような自由さが自分の人生に少しでもあることを祈る。

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