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〇〇ハラスメントと日本の衰退

こんにちは、異端の内科医Dskeです。
さて今回は小説ではなく最近思った事を綴ります。

いつの頃からか当たり前のように聞くようになったハラスメントという言葉。セクハラ(セクシャルハラスメント)、パワハラ(パワーハラスメント)あたりまでは理解は出来たがその後『何でもハラスメント』状態に陥っているのは皆さまも御承知の通りかと思います。

もちろん男性から女性を守ったり、上司から部下を守ったりという
「弱者」を「強者」から守るという意味では一定の意義があるものであろうとは思います。

こういう言葉が登場してきた背景には日本人の特性が影響しているように思えます。つまり
 「波風は立てたくない」
 「相手に嫌な思いをさせたくない」
 「空気を読むべき」
あたりでしょうか。

上司、先輩、目上の人からの誘い、依頼などを断ったりするのは上記の思いから憚られるものであったのであろうと思います。昭和の時代は上の者の命令が絶対という風潮もあり、たとえ嫌だったとしても仕方ないとあきらめて従っていたのが通常だったようですが、時代を経て徐々に個人の権利というものが強調されるようになってくると、弱者側を擁護する動き、考え方が芽生え、それがハラスメントという言葉で普及した。そこまでは良かったののですが・・・

現在の状況を見てみるともうお分かりの通り「何でもハラスメント」状態でとなっています。つまり上の立場の者が下の立場の者に何か指示をする、誘うなどの行為があった場合に下の立場の者の思い一つでハラスメントが成立してしまう状態といっても良いでしょう。弱者を守るという観点からは有効に機能していたものが度が過ぎてしまった結果、身動きが取れない状態に陥っているのが現状です。

上の立場の者からすれば何がハラスメントになるのかがわからない状態なので下の立場の者に何も言う事が出来なくなる、常に下の立場の気持ちを考え、考え過ぎた結果何もできなくなる、日本人の日本人らしさが悪い方向に生かされてしまっているような気がします。

下の立場の者にとっては心地よい状況とも言えるのかもしれませんが、それとて『嫌なものは嫌』という意思表示を放棄し続けてきた日本人らしさに度が過ぎた結果、結局はハラスメントという概念に守られているだけの状況と言えるでしょう。

この閉塞した状況をどのように打破したら良いのか。
現状に至ってしまった一番の要因は『個人と個人』という関係性しか見えなくなっている視野狭窄にあるのではないでしょうか。
本来の日本人は個人と個人というよりも、その空間自体を意識して行動していた。つまり個人の損得よりもその空間(家族、集落、コミュニティなど)に利益があるような行動を積極的に行ってきた。それが日本人の日本人たる部分であったはずだ。具体例を挙げると隣の家にお醤油を借りに行ったり、隣人の高齢者が困っていたらお手伝いをしに行ったりなどが普通に行われていたのが良い例でしょう。

それが良い意味で上の立場の者の指示に下の立場の者が従って動き、そのコミュニティ全体が前に進んで行くという良好な関係性が保たれていたのが高度成長期の日本だったのかもしれません。がむしゃらに働いて国を復興させようという個々の意識がそれを可能にしていた。もちろんその中で辛い思いをしてきた層は確実にいたとも思われます。

しかしながら国力が上がり「そこまで頑張らなくてもよい」という考えが出てくると、その辛い思いをしていた層が主張し始めるのが普通なはずですが、ここに前述した日本人の奥ゆかしさが悪い方向に作用しました。
自分の気持ちよりも他人の気持ちを重視する、空気を読むあまり、嫌なものを嫌と言えずストレスを溜め込む。結局は第三者が「ハラスメント」という概念を持ちだしてくれるまでその我慢は続き、ハラスメントの概念の登場とともに一気にそのストレスが解放された。それで済めば良かったのだが、今度は少しでも嫌だと思うものは何でもハラスメントの名の元に拒否することが可能となり現状に至っているような気がします。

個人より集団を意識する良好な国民性→その国民性が度を越えて個人が潰れる→個人を守る動き(ハラスメント)→それがまた度を越えて集団が成り立たなくなるという感じでしょうか。

常々人間にとって一番大事なものとして「バランス」を挙げてきました。
健康でも社会生活でもバランスを崩すを乱れていくのが常です。

ここで視点のスケールを大きく変えてみましょう。つまり国と国の関係性、日本とアメリカの関係性に関して考えてみると戦勝国アメリカと敗戦国日本の関係性はいまさら語るまでもありませんが、戦後80年近く経過した現在でも日本はアメリカの言いなりです。究極のパワハラだと思うのですが、嫌なものを嫌と言えない日本人の特性の悪いところがおそらくダラダラとこの関係性を持続させてきた気がします(もちろん他の要因もあるのだが)

良くも悪くもハラスメントという言葉が当たり前のものとなった現在の日本
においてこの日米関係に関しても異議を唱える人間が少ないのはなぜなのか??? おそらくハラスメントという言葉自体が当人自体が主張して生まれたというよりも、あまりに度が過ぎたのを見た第三者が主張したことで徐々に顕在化したもので、それに何とか乗っかった結果だからのような気がしてなりません、つまり自分で主張して勝ち取ったというよりも与えてもらった権利ということなのかもしれない。つまりここにも「他責」が存在する。

となればアメリカのパワハラに対しても第三者が手を差し伸べてくれないと何も言えないような気もします。それではダメなのでせっかくハラスメントという概念が定着した現代において、個人個人が正しいハラスメント意識を持つようになれば日本の現状を大きく変える動きを起こせる気がするのですが皆さんはどうお考えでしょうか。






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