人が死ぬということは
先日、友人が亡くなった。
高校生の頃からの友達であり、20代のころは共に音楽にかける情熱を同じバンドへ注いでいた。
親友といって差し支えない。唯一の、と言ってもいい。
俺はあいつと成長したし、あいつと傷ついて、傷つけあって、笑って、泣いて、苦楽を共にしてきた。
思い出は数え切れないほどある。楽しかったものも、辛かったものも、喧嘩したことも沢山あった。高校に上がるまで暗い青春を送っていた俺を見兼ねてバンドに誘ってくれたクラスメイト。言い方を変えれば俺の人生を良くも悪くも狂わせたやつだ。15歳からの付き合いで、会えなくなってからも忘れた日などなかった。
先月某日の朝、訃報を電話で知らされてから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。
未だに実感はない。
いや、死とはそもそも感じることではないのかもしれない。
感傷に浸りたいわけではないけれど、今日はその辺を書こうと思って久しぶりnoteを開いている。
よくニュースで芸能人が亡くなったとき、「未だに生きてるんじゃないかと疑ってしまう」と偲ぶ言葉をよく聞くが、あれは本当に実感としてそうなのだと知った。
まだ生きてるんじゃないかと思ってしまう、というより、死んだということが体に入ってこないというか。
例えば最近会ってない友達がいて、その人のことを思い出したりする。その状態と何も変わらないというか。
亡くなった人のことを思い出したとして、亡くなったということ自体を認識できないでいる俺がいる。思い出は腐るほどあって、二人で始発まで散歩したことなんかも山のようにあったから、雲がかかった月を見るだけでもあいつの顔を思い出しはすれど、もう会えないのだというところに実感があまりない。
すぐに喧嘩をふっかけるようなめんどくさい奴だったから、きっと今の俺の状況にもブツクサと文句をたくさん言ってくれることだろうと思うけど、その声が聞きたいと思うけれど。
そういうものが、当たり前だと思っていたものが叶わないのだという事実は死の一部分であって、それは死自体の認識ではないことは確かだ。
その"死、それ自体"をどこかで認識したがっている自分がいる。きっとそんなことはどうでもいいことなのかもしれない。しかし何か欠落したような感覚がずっと頭の片隅に空洞を穿っている。タバコを吸う今この瞬間もあいつのことを思い出して、欠落が気怠さとなって体を重くする瞬間がある。それを解消したいのかもしれない。埋め合わせたいものが俺の中にあるのか。
感傷に浸ろうとする自分を責めようとする自分もいる。そんなことあいつが望んでいるか。この文章だって、何も出来なかった自分への言い訳に過ぎないんじゃないかと思いそうにもなる。
そんな軽薄な自分が嫌になりそうになる。
その反動で"死、それ自体"を認識しようと思っている自分がいるのかもしれない。理論武装は、自分の心を守るために最も手っ取り早い手段だ。
心の弱い人間ほど、意味もなく言葉を重ねていく。それはいつだって虚しく、どこか哀しげである。
だからどこかで諦めようとしている自分もいる。もう言葉を重ねても意味がない。あいつはもういない。投げかける言葉も、以前より整理された気がするだけの頭も、もう必要なくなった。
自分のことを語るのは苦手だ。言葉なんて重ねれば重ねるほど、何か言い得た気がしないからだ。
その手段として哲学に没頭した頃もあったが、今となってはそれすら、現実を見ないようにする理論武装を血眼で拵えていただけだ。
陽はまたのぼり、朝を迎える。残された俺は自分と大切な人たちの幸せを願って、また汗をかいて働く。それ繰り返していく。繰り返していく中で、少しずつ見つけていく。
明日は就職活動だ。生活していく中で必要な柱を建てに行かねばならない。
長いバイト生活を抜け出して、俺は少しだけ前に進むことにしたのである。
バンドは辞めない。
あいつの残滓が、まだどこかで息をしていることを祈っているから。
自分の中にまだ歌いたいことがたくさんあるから。