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表現の不自由展を哲学的に考えてみた

「表現の不自由展」は、何がダメで何がいいのか?という根本的な価値観を問う問題で、哲学的にも重要な問題だなと思い、私なりにいろいろ考えてみた。

「審級的価値の本質は人間の集合社会が作り上げた約定的秩序であるという点(欲望論第2巻71節)」。

この考えを適用すれば、日本という集合社会において作り上げた法律、規範とか習慣(=約定的秩序)から逸脱したものが「わるい」ということなんで、法律面はもちろん、法律以外でも日本社会のコンセンサスとして明らかに否定されている価値観に基づき制限されるべき表現か否か、判断ということになる。

そもそも表現の自由と言われつつ、公の場で開示してはいけない表現とは何だろうか?「日本国内」を前提に考えてみた。

<法律上の制限>
◼️差別的表現:男女、人種、出生、年齢、学歴、職業、障害など
差別的な表現は、個人の人権を侵害するものとして、憲法で保障されているため、芸術含めて制限されている。最近はLGBTという新しい概念も登場し、これも差別の対象として認知されつつある。

◼️個人の尊厳を犯すこと:特定の人を馬鹿にすること。名誉毀損
特定の個人を貶めることは、公人であっても損害賠償の対象になるようだ(各種週刊誌が原告の判例)。

*あいちトリエンナーレでの映像作品「遠近を抱えてpart2」における昭和天皇の扱いも「燃やす」という行為だけが取り上げられてしまったので、作家の意図が伝わりにくいことになってしまった不幸もありましたが、内容をみる限り「個人の尊厳を犯すこと」には該当しないでしょう(作者へのインタビューより)。

◼️個人情報
今更ではありますが、これも個人情報保護法で公に表現してはいけないものとして定着しましたね。

◼️性の表現
いわゆるポルノ系。これは芸術の場合に限って一部認められているようです。春画だとか、メイプル・ソープ(写真家)の作品だとか、ギリシャ彫刻なんかも、結構際どいのもありますが、私も観覧経験もあり原則OKなんでしょう。

<法律以外の制限>
ここが議論になる部分。特に日本の場合はナショナリズムをネガティブに刺激する部分は、過去にナショナリズムによって戦争を招いてしまったという反省もあって、法律で禁止している他国に比べても、ゆるい感じはします。

◼️宗教的冒涜
宗教的冒涜に関する案件については法律で禁止されていなくても、日本だけでなく世界的に制限されているように感じます。宗教批判については、各宗教の神様等のお祈りの対象となる「もの」「こと」への冒涜は、信者への心情を思うと制限すべきと私も同感です。

◼️戦争賛美
日本の場合は平和憲法で戦争は「悪」として認定されていますし、太平洋戦争の辛い経験もあり、日本国民全体のコンセンサスとして「戦争賛美」の表現は制限すべきでしょう。ナチス賛美もこれに含まれるかもしれません。

あいちトリエンナーレの「慰安婦少女像」と『遠近を抱えてpart2』では、展示の意図(津田氏のインタビュー)からかけ離れてしまい、メディアによる断片的に伝えられた映像や記事とはいえ、日本人の大多数の人が不快に感じたため我々一般人にとっては『悪い』こととしてやめた方が良い。

一方で表現の自由を尊重すべきという価値観もあってこの制限もまた『悪い』。つまり二つの相反する価値観のせめぎ合いが今回の件で、だからこそ賛否両論。

個人的には政治的信条の場合は表現の自由の範疇に含まれるので、私は「問題ない」という認識です。むしろ問題にしてしまうと検閲問題が浮上してしまう。

見たい人が見ればいいのであってみたくない人は見る必要もないし無視すれば良い。そういう自由は大事にしたいという事です。

ただ今回は津田さんが会見でも言及しているように、メディアのセンショーナリズムを扇動する記事はもちろん、日韓関係の悪化、京アニ問題が時期的に重なってしまったため、ちょっとタイミング悪かったかなと思います。

*アメリカ合衆国:ニューヨーク州 自由の女神

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