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奈良の風土:ふつうの国になった「中世の北部」

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奈良北部の戦国時代から江戸時代は、興福寺の宗教国家的性格から、ふつうの国家になった時代。

それまでは列島の中心であり宗教独立国家であり、列島の中でも独自の地位を確立していたのですが、戦国時代シャッフルによって「ふつうの国」に落ち着いたということ。最終的には江戸幕府の中央統治体制に組み込まれたのです。

これらは興福寺の支配を少しずつ切り崩していった大和の国人(武家兼僧侶)や町人の勢力拡大や新興宗教勢力の一向宗の吉野川方面からの侵入に始まり、松永久秀の入国や大和の国人出身の筒井順慶など、戦国時代の国取り合戦にて興福寺の力が衰退していったため。

織田信長→豊臣秀吉の天下統一の過程で、秀吉の弟、秀長が大和郡山城に至り、完全に興福寺の政治的支配は終わり、一向宗の侵攻の結果としての商業都市「今井町」以外は、ほぼ武家政権による支配下となりました。

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(大和郡山城跡。2021年5月。以下同様)

■豊臣秀長の世俗化改革

秀長は、興福寺の権力を徹底的に削ぐため、門前町奈良を衰退させるべく、長秀城下町たる大和郡山だけに市を立てることを認め、奈良盆地の政治も経済も全て奈良から大和郡山に集約することで、宗教国家的性格を徹底して排除し、大和郡山を中心とする武家国家への変換を目指しました。

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(大和郡山市街:紺屋町)

同時に太閤検地によって耕作地のデータベース化=見える化を図り、興福寺・多武峰などの寺所有の領地も徹底して取り上げ、宗教団体の政治権力の完全な無力化を成し遂げました。

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(金融で財を成した多武峰=談山神社:松本清張他著「奈良の旅」より)

■江戸時代の諸藩

秀長の跡を継いだ豊臣五奉行の増田長盛は、関ヶ原の戦いで西軍に加担したために排除され、奈良盆地は幕府直轄領含め、さまざまな藩の領地が分割統治された地域となりました。

大和国郷帳によれば、以下の通りで、百数十もの領主によって分割統治されていたといいます。

*大和国(奈多盆地)合計50万石
うち概算で
 幕府領19万石(40%)
 藩領 19万石(40%)
 旗本領 8万石(14%)
 寺社領 4万石( 6%)

最大藩だった大和郡山藩は、12万石と全国的には中規模程度で領地も奈良盆地全体の25%程度しかありません。しかもこの大和郡山藩も藩主が次々に変わるなど、決して力のある藩ではありませんでした。

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(大和郡山城跡から薬師寺・平城宮を望む)

古代の奈良盆地は人口も少なかったので、小雨の問題はあまり表面化しなかったのではと思いますが、江戸時代に至って人口も増え、4〜5年に一度は旱魃に見舞われていました。「大和豊年米食わず」と言われ、乾燥地域のヤマトが豊作の年は、全国的には大雨に見舞われて帰って不作になるという諺もあったそうです。

経済的にも豊かな土地とはいえず、大和川の水運によって取り寄せた金肥(干鰯などお金で調達する肥料)を活用して綿花、麻(奈良晒し)などの換金作物とその加工を生業としていました。

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(高取町旧市街:高取藩は、薬を生業とした町人が多かったらしい)

ちなみに大和郡山の名産「金魚」は、柳沢吉保の孫の三代藩主保光が、武士の副業として先代が国替え元の甲府から持ち込んだもので、渇水対策としての既存の溜池を活用して養殖したところ、郡山の金魚として人気を博し、名産となったそう(奈良のトリセツ122頁)。

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(大和郡山の金魚用ため池)

■今井町の商業都市化

一歩足を踏みいれれば別世界的な街の景観が残っている橿原市の今井町。街の人に聞けば「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、一部改装するにも厳格なルールが適用されるらしい。もちろんその代わり補助金付きではありますが。。。

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江戸時代まで自治都市として幕府からも認められた裕福な街だったそうで、そのルーツは一向宗。

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一向宗布教の拠点として発展した結果、金融・商業都市化して裕福な街になったそう。独自の通貨(今井札)も発行するなど、自治都市にふさわしい「ヒト・モノ・カネ」の集積都市。当時は「海の堺 陸の今井」と持て囃されていたらしい。

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一方、自治を認められたその代償は何かといえば「税金」であって「しっかり稼いでもらってたっぷり税金を納めてね」という構図。そのために幕府は今井町を直轄領にしたのです。

以下参考図書

*写真:2021年5月 奈良県立民族博物館。写真画像の全体は以下。

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