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「京都の風土」鎌倉時代:親権力の臨済宗⇔反権力の浄土宗

京都が権力から見放された鎌倉時代。京都の天皇家や摂関家は、当初は武家におもねって、武家に愛された臨済宗を信仰したものの(→東福寺)、時が経過するにつれて自らもその必要性に迫られて臨済宗を信仰するようになります(→南禅寺、大徳寺、妙心寺)。

一方で、江戸時代に徳川家の篤い信仰を受け、今では巨大な伽藍を擁するる浄土宗の寺(知恩寺、金戒光明寺)は、当初は既得権益を有する南都北嶺(奈良興福寺&比叡山延暦寺)からの迫害を受けた反権力の改革派で、臨済宗とは真逆の立場でした。


⒈禅宗のうち、なぜ臨済宗だけが京都に多いのか

鎌倉時代を象徴する京都のお寺は、臨済宗と浄土宗のお寺。このうち臨済宗は禅宗ですが宗派は大きく分けて曹洞宗と臨済宗、黄檗宗があります。

京都の禅寺は大半が臨済宗なんですが、これはなぜなんでしょう(臨済宗237、曹洞宗49、黄檗宗14『京都の寺社505を歩く』24頁)。

鎌倉末期から室町初期に活躍した禅僧に関する書籍『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』(桝野俊明著)に基づいて私なりに解釈すると、

曹洞宗はインプットのみを重視した一方、臨済宗はインプットと同時にアウトプットも重視していたから

ではないかと思われます。

曹洞宗は「只管打坐(しかんたざ)」との如く、ひたすら座禅することによって「無欲の境地」を獲得することのみを目指し、その境地や状態などをアウトプットすることは不要としていたからではないかと思われます。

したがって曹洞宗のお坊さんはインプットに特化するために人里離れた静かな場所で修行する必要があるからではないか、ということです。アウトプット不要だから枯山水などの庭を作る必要もありません(最近は集金対策の観光寺として境内を美しく整備する寺もあるらしい)。

一方で臨済宗の場合は、坐禅といってもただひたすら黙って「無欲の境地」を目指そうとしているだけではダメで、きちんとその境地を言語化したり(公案=禅問答)、庭として表現したりするなど、アウトプットする必要があります。京都の寺の名庭園のうち、臨済宗の寺が圧倒的に多いのは、禅の境地を庭にして表現するのが臨済宗の教えの一つだから。

だから京都のような人の多く住む場所で人との交流が必要なわけです。したがって権力者たちも曹洞宗よりも臨済宗の方が親和性が高く、結果として京都の禅寺は臨済宗ばかりになる、という理屈です。

東福寺(2010年撮影)

⒉武家におもねった寺「東福寺」

そんなわけで、京都の禅寺はほとんどが臨済宗のお寺ですが、これは武家社会が臨済宗を好んだから、政治権力から見放された天皇家や公家が武家におもねるべく、建立したのがその実情ともいえます。

武家社会では、自らが新興勢力でもあったわけで聖の世界における新興勢力「臨済宗」にも抵抗がありませんでした。しかも臨済宗は、公案(禅問答)によるインタラクティブなコミュニケーションや自己鍛錬を志向するその教えが武士の価値観にも適合。

東福寺三門(同上)

鎌倉幕府は積極的に鎌倉に臨済宗のお坊さんを中国からも国内からも招致し、その本拠地としての禅寺(建長寺など)を建立します。

このような時代状況において、京都の権力者たちも武家権力に阿るべく、新興宗教たる臨済宗の受容の必要性に迫られます。

その典型的な事例が東福寺。

東福寺は九条道家(1193〜1252)が北条家に取り入るために、ほったらかしだった自らの氏寺「法性寺」の寺地を臨済宗の寺にすべく、優秀な禅僧「円爾(1202−1280)」を九州から招いて建立(詳細は以下)。

東福寺(同上)

⒊自ら禅僧となった亀山上皇の「南禅寺」

亀山上皇(1249ー1305)は、後醍醐天皇の祖父であり、大覚寺統(のちの南朝)の始祖。ちなみに北朝は、亀山上皇の兄の後深草天皇を始祖とする持明院統

亀山上皇は日本宗教史のうえでも大改革者で、退位して最初に禅僧になった天皇

南禅寺建立の地は、もともと神仙佳境と呼ばれる霊地で、亀山上皇の離宮「禅林寺殿」があった場所。

南禅寺山門より(2011年撮影)

南禅寺を建てたのは、東福寺を建立した九条道家(またはその息子の道智)の怨霊鎮魂のためではないかと言われています(『京都発見2』232頁)。

別説では、離宮の前にあった三井寺の別院「最勝光院」に住んでいた人の死霊が出没したため、東福寺三世の無関普門(1212ー1292)に依頼して無関普門が死霊退治に成功。このことにより亀山上皇は自らの離宮を1291年、禅刹に改めたのが南禅寺とも(『京都の寺社505を歩く上』29頁)。

同上

亀山上皇はこの世を諦めた代償に、南禅寺建造に精魂を傾けます。上皇は「禅林禅寺起願事」という文書を記して往持(住職=寺の責任者)任命に関する厳しい規約を定め「南禅寺の住持には法脈を問わず最も優れた者を就けよ」としました。

同上

南禅寺がのちの室町時代に五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)を越えた別格の寺院とされるのも、こういう規約があったからとのこと。

南禅寺境内(同上)

⒋今の臨済宗の源流「宗峰妙超」ゆかりの寺「大徳寺」「妙心寺」

栄西によって始まった臨済宗ですが今の臨済宗の形は宗峰妙超(1282ー1338、大燈国師)が主に創造したと言われています。その宗峰妙超に帰依したのが花園上皇(1297ー1348)。

宗峰妙超は播磨国出身。なんといってもその厳しい修行と天下に轟く聡明さが有名なお坊さんだったそうで、今でいう論破王。

南都北嶺(主に奈良光福寺&比叡山延暦寺)の名だたる名僧と法論で戦ってこことごとく論破したと思えば、乞食の格好で京都市中(鴨川五条の橋の下)で修行するなど、心も頭も強靭なお坊さんで、どんな偉い人の前でも全く動じない当時最強のお坊さん。

したがって天皇家がほっとくわけもなく、花園天皇(持明院統)が三顧の礼で出迎え、もともと紫野にあった宗峰妙超の寺を拡張して「大徳寺」としたらしい。後に花園天皇を継いだ後醍醐天皇(大覚寺統が朝廷の勅願所としたものの室町時代に衰退し、一休宗純の兄弟子、養叟宗頤(ようそうそうい)と千利休によって復活するという歴史。

一方の妙心寺は、宗峰妙超の弟子「関山慧玄(1277−1361)」が開山。

宗峰は「私の付法の諸氏の中で慧玄だけが禅の本質を掴んでいるが、彼は天生の風滇漢でどこにいるのかわからない」と答えた。この師から「風滇漢」と追われた関山慧玄こそ、妙心寺の開山であるが彼のことはよくわからない。

梅原猛著『京都発見8』188頁

とのように厳格さがウリの宗峰妙超が認めた弟子が関山慧玄。花園法皇はこの宗峰の言葉に深く尊敬して関山を探し出し、仁和寺内の花園御所の地を与えて宗峰の名付けた「正法山妙心寺」という禅寺を建てさせようとしたのです。

建立された当時は今のような大伽藍ではなかったそうですが、これはのちの巨大な臨済宗の宗派の本山にしたのは妙心寺第4租の日峰宗舜と、その日峰に学んだ第六租の雪江宗深によるものとのこと。

⒌反権力・改革派「法然」の浄土宗

⑴浄土宗の始祖「法然」

徳川幕府による篤い信仰を受けた結果、今もその巨大な伽藍を擁する浄土宗の総本山「知恩院」。

知恩院(2012年撮影)

その浄土宗の開祖は法然(1133ー1212)で、もともとは権力に抗う改革派の宗教者。

法然院(2023年撮影)

当初は、比叡山延暦寺で天台宗を学んだものの、両親が夜討ちにあって二人とも殺されるなど、深く世の無情を感じ、隠遁しようとしましたが師匠(叡空)に止められ、ひたすらお経を読む毎日に。

また一説には父が臨終の際

恨みは恨みによって消えるものではない。恨みを超え、すべての人が救われる仏の道を求めてほしい

『京都の寺社505を歩く上』174頁

という遺言に答えて、仏門に入ったとも言われています。法然院そんな中、法然は源信の『往生要集』で説かれた浄土念仏に心惹かれ、この教えを誰でも信仰できて、誰でも成仏も往生できるよう、中国7世紀の僧「善導」に倣って口称念仏としました。

なぜならこれまでの仏教は貴族などのごく一部の人たちのためのものであって、天変地異などの災いが遭っても「凡夫も悪人も女人も往生できない」とされていたからです。

同上

しかしこのような改革派としての専修念仏は、聖の世界における既得権益「南都北嶺」から執拗な圧力を受け、1207年に後鳥羽上皇が専修念仏を禁止してしまいます。

法然も一時は土佐に流されそうになりましたが、新時代の到来に不安を抱え、浄土宗信徒になった九条兼実(1149−1207)の庇護により、讃岐への流罪に減罪(承元の法難)。

そして1211年に赦免されて京都に戻るも翌年、大谷禅坊(今の知恩院、勢至堂の場所)にて入滅。

同上

⑵法然入滅後に建立された知恩院

法然の入滅後、弟子や信者たちが集まり、師の恩を知り念仏の教えを守る場所ということで「知恩院」が建立されます。

知恩院(1012年撮影)

しかし1227年に再び比叡山の圧力によって念仏弾圧の動きが起こり、比叡山の僧たちが法然ゆかりの庵を壊し、法然の遺骸を掘り出す噂があったので、弟子たちは遺骸を掘り出します。

そして、それを今の粟生の光明寺の地に運び荼毘に伏し、その遺骨を二尊院の塔の中に納めたそうです。

二尊院(同上)

弾圧がおさまるとまた元の地に弟子たちが源智を中心に集まり法然自作と伝えられる彫像を祀って法然を偲びます。この彫像は江戸時代に巨大な知恩院を建てるにあたって、御影堂に移されその本尊となったもの。

知恩院(同上)

⑶法然の後継ぎ「源智」建立の百万遍知恩寺

知恩寺は知恩院と並んで、古い由緒を持つ浄土宗の本山。信者が大きな数珠を回して百万遍の念仏を唱えることで有名で、それで百万遍という名がついたそう。

また一説には1331年日本各地で疫病が流行り、後醍醐天皇が知恩寺の八世善阿に加持祈祷を命じたところ、善阿は七日間百万遍念仏の行をおこない、ようやく疫病を止めたので、その功績によって百万遍の号を与えられたとも言います。

知恩寺は法然の愛弟子で、法然の死後すべての遺産を授けられた源智(1183ー1239)の建立した寺。

源智は平重盛の孫で師盛の息子。知恩寺はもともと賀茂の河原屋の跡地にありましたが、点々とし、江戸時代家綱の時に、幕府から替え地と五百両を下賜されて現在地に移り、再建を果たします。

本来は法然の後継たる源智直系の寺だし、「寺」は「院」よりも格上なので浄土宗の本山は知恩寺かと思いきやそうではなく知恩院。

室町時代応仁の乱の後、知恩寺と知恩院の間で本山争いが起こり、1575年正親町天皇の裁定で知恩院を総本山とされたそうです。

(妙心寺、大徳寺、知恩寺は次回京都訪問時に撮影したい)

*写真:浄土宗大本山「金戒光明寺」2023年10月撮影

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