EUREKAを観て連想した映画・ドラマ色々

もうすぐ連休が終わる。

青山真治監督による2001年公開の『EUREKA』を観た。
これは紛れもない「赦し」についての映画であった。

上映時間は217分。超盛りだくさんの映画かと思いきやストーリーは至ってシンプル。Wikipediaのあらすじは以下の一文である。

九州で起きたバスジャック事件によって、心に深い傷を負った運転手の沢井、中学生の直樹と小学生の梢の兄妹は、人生の再生をかけた旅に出る。

まさにこれだけ。『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』に触れる際に必ずと言っていいほどついて出てくる常套句「行って帰ってくるだけの映画」どころか、この『EUREKA』は「行くだけの映画」である。

「赦し」のキーワードで連想される映画が本作と同じく役所広司主演、盟友である黒沢清監督による『ニンゲン合格』(1999年公開)である。
10年間昏睡状態にあって突如目覚めた西島秀俊演ずる友人の息子を、役所広司が実の親のように世話をするというただそれだけの物語である。
なぜそこまでするのかという詳しい理由は劇中では語られないものの、血の繋がっていない家族”の・ような”関係性は、本作にも通ずるモチーフであろう。
ちなみに、どちらの映画にも役所広司が自動車の運転を教えるシーンが登場するため、姉妹作と言って差し支えないだろう。

他にも「赦し」というキーワードで連想するのが、イ・チャンドン監督による『シークレット・サンシャイン』(2007年公開)という韓国映画である。息子を亡くした母親が、宗教的な観点から犯人を”赦す”ことができるのかという重要な問題提起を行なっていた一作であった。
また、吉田恵輔監督による『空白』(2021年公開)という日本映画があった。交通事故で娘を亡くした父親と、その事故に間接的に関わっているのかどうか...というスーパーの店員との関係性を濃密に、時にユーモラスに描いた傑作である。

ある決定的な出来事によって集結する”他者たち”を描いた日本映画でいうと、是枝裕和監督による『DISTANCE』(2001年公開)が想起される。カルト教団による殺害事件が起こった数年後、加害者遺族たちが一堂に会しそれぞれが過去と向き合う様子を描いた作品であり、映画音楽を最小限に留め劇中の音響効果にフォーカスを当てる側面も『EUREKA』と共通する部分がある。
また、阪神淡路大震災を経験した2人の”他者”がそれぞれの記憶をさらけ出す『その街のこども 劇場版』(2011年公開)という作品があった。元々は渡辺あや脚本(『カーネーション』や『今ここにある危機とぼくの好感度について』などが代表作)、NHK制作のテレビドラマであり、視聴者からの強い要望があった結果未放送シーンを加えた劇場版として公開することが決まった異色の作品である。
殺人事件の被害者遺族の一人と加害者遺族の一人が交流を深める、坂元裕二脚本『それでも、生きてゆく』(2011年放映)という大傑作ドラマもあった。『EUREKA』において殺害事件に関与しているとされるある人物が、風間俊介演ずるサイコパスの殺人鬼と重なって見える部分(どちらも幼少期の記憶が関係している)が多々あった。

「親の不在」によって繋がる”他者”、そこから派生する”疑似家族”を描いた作品でいうと、吉田秋生作『海街Diary』(後に是枝裕和監督によって映画化)や、ヤマシタトモコ作『違国日記』などの日本の漫画を想起する。

「どんだけクソ野郎に思える人物でもその人なりの人生が存在する」というテーマで連想するのは、宝石などの異物を(物理的に)飲み込んでしまう主人公を描いた衝撃作『Swallow / スワロウ』(2021年公開)である。
主人公の生い立ちのある出来事に関わるクソ野郎の家にかちこむシークエンスでは、「相手の家族をも崩壊させるのかどうか」という悲惨な葛藤を強いられる。当時『Swallow / スワロウ』の該当場面を観ていて連想したのが是枝裕和監督『そして父になる』(2013年公開)の終盤、息子取り違えの原因となった病院スタッフの自宅に福山雅治主人公が乗り込む名シーンであった。

上述した通り『EUREKA』は静謐な作品であり、要所要所で挿入される音楽を別にすると印象に残るのが”ノックの音”と、”(ひどく不愉快な)主人公の咳払い”である。それと並行して、感情を仰々しく描くことを真っ向から拒否する如く、登場人物たちの”顔”をなかなか見せない。
(国生さゆり演じる役所広司の元妻も、初登場の場面ではカメラに背を向けたままである。)
本作で目立つのが”引き”のショットの多さであり、ロケーションの壮大さは黒沢清『蜘蛛の瞳』や『カリスマ』、濱口竜介の短編『不気味なものの肌に触れる』において村上淳演じる男が、ボール遊びに興ずる仕事仲間達からボールを急に奪い取り、遠くに投げた後とぼとぼ歩き出す(仲間もそれに続く)シークエンスを連想させる。

黒沢清は自著『黒沢清、21世紀の映画を語る』(2010年にboidより出版)にて、『EUREKA』の中の”河にサンダルが流れるシーン”を以下のように評している。

このサンダルの持ち主である女性はもう生きてはいない。おそらく殺されている。フレームには映っていないどこか、それは物語上も語られていない場所かもしれません。しかし、この今見た映画のいくつかのカットのすぐ外側で、明らかに人が殺されている。それが、河の水面を見ているとだんだんわかってくるのです。
(中略)
何でもない、ただのその辺の河べりで撮影され、近くにはごく普通の街と普通の生活があるのだろうけれど、そのすぐ外側は間違いなく暴力に満ちている。そういう立場に立った映画でした。

補足として黒沢は、映画における”河”の影響力について以下のようにまとめている。

河は、何かが流れてくる、向こう側に渡る、水面を漂う、潜る、など、何かこちらとあちらの関係、不意にあらわになる外側、どこか向こう側に向かって動き出す、といったことと結びつきやすい場所なのかもしれません。

黒沢がこのシーンにおける”外側”、そしてそこから想像する”暴力”を強調しているのは、まさに本著の中で21世紀の映画の重要要素として「不意に露呈する外側」を提示しているためである。それについて詳しく言及されている部分を(繰り返しにはなるが)引用する。

映画の外側に世界が広がっていて、そこは暴力で満ち溢れている、映画は原理的にそこから逃れられない。そんなことは実は百年も前、映画誕生のときからわかっていた、わかっていたのに何もしてこなかったことの責任を、今こそとらねばならない。そういう認識に立った映画を、二十一世紀の映画と呼びたいと思います。

21世紀の最初期に同時多発テロが発生し、イラク戦争、アフガニスタンへの侵略など”すぐそこにある暴力”が加速していった。80年代、90年代にやり過ごしてきた問題が一気に爆発したそんな暴力的な時代において、映画というメディアに対して求められたものは何か。その問いに対する明瞭な回答が上記引用部に集約されていると感じる。

さて、”河”というモチーフでやはり連想されるのが、またも黒沢清監督『アカルイミライ』(2003年公開)であろう。自作とあってあえて『黒沢清、21世紀の映画を語る』の中では言及しなかったものと邪推するが、「クラゲの大群が河一面に放たれる」という幻想的なラストシーンを描いたこの作品も、(チェ・ゲバラというアイコニックな人物が重要な要素となるのも含め)ずばり”21世紀的な”映画であると言える。そういえばこの作品も、血の繋がっていない他者同士が親子のような関係になり、”赦し”を与え合うというテーマであった。

ちなみに、すぐそこに潜む暴力性を匂わせる強烈なショットとして思い出されるのが、森田芳光監督『ときめきに死す』(1984年公開)において、3人の男女が店で食事をしている、その窓の奥の方に小さく見える建物の屋上で、2人の男が掴み合いの喧嘩をしているという構図である。その詳細については劇中で何の説明もないし、ピントがぼやけた状態なのでどこか異様さと後味の悪さを観客に植え付ける。
思えば黒沢清監督『クリーピー 偽りの隣人』(2016年公開)でも、大学の研究室で詰問を行う場面のガラス窓の奥に、エキストラかと思っていた人物がある意外な動きをするという件があった。上映当時の時代性を強く意識し、「早すぎた」傑作映画としてカルト的人気を誇る『ときめきに死す』の微細な演出方法が、現代的にアップデートされ、取り入れられた(偶然かもしれないが)一例と捉えることもできる。

そこから派生して2010年代の表現はどのようなものだったか考察すると、「外部に対する視線」から一周して「内部に対する視線」も強化されたと見ることができる。
最も象徴的な作品がアメリカのヒップホップアーティスト、ケンドリック・ラマーによる『To Pimp A Butterfly』(2015年発売)であろう。
「白人による黒人への暴力、殺害」に対するプロテストというより、彼は「まずは黒人同士、コミュニティ内部での紛争をクリアにする、という段階を踏むべきではないのか」という問題提起を強く打ち出した。

「シスターフッド」という言葉をよく耳にするようになった現代。女性同士の連帯はとても力強い表現である(個人的にも日々勇気づけられている)と同時に、「シスターフッド」はいわゆる”分離主義”的な考え方、つまり「女性たちだけの関係の可能性を試そうとする」文脈で使用されることもあった。
「TERF」日本語で言うと「トランス排除的ラディカルフェミニスト」というトランス嫌悪的な言説を支持するフェミニストの存在が定義づけられたことからも示唆されるように、常に内部への視線、自浄作用を欠かさず行なっていく(議論を重ねていく)ことが、何よりもあらゆる人々の人権を尊重していく流れとして不可欠であろう。

大好きなNetflixのドラマ『セックス・エデュケーション』シーズン2のエピソード7では、『ブレックファスト・クラブ』の現代的解釈とも言える、補講で集まった女子高校生たちが男性のマチズモ的行動、セクシャルハラスメントに対する「これっておかしいよね?」という議論を重ねていくシークエンスがある。(その後の物理的に廃棄物を破壊していく場面も最高!)
同じ(とされる)ジェンダー、セクシュアリティの中にも様々な意見が存在するという点では、坂元裕二脚本のドラマ『問題のあるレストラン』(2015年公開)の第4話で、高畑充希と二階堂ふみが正面対決するシーンを連想する。
高畑充希演じる女性は「男性と比べて体力的な上下関係が既に存在しているのだから、それに付け込んだ方が早い」として、セクハラを笑顔で交わしながら東出昌大演じる意中の男性に愛嬌を振りまく。二階堂ふみ演じる女性は東大出身という経歴がありながら、職場での女性差別を目の当たりにし辞職に至ったという経緯があり、どうしても「バカのふりをする女性」を”赦す”ことができない。
「物事全てはグラデーションであり同等に扱うことなど決して不可能だ」ということを前提にし、「内部への視線」をより強化した2010年代の表現は、2020年代に突入した現在もアップデートを重ね、然るべき人に届いている。

以上が2000年代初頭の映画『EUREKA』を観て抱いた雑感である。

もうすぐ連休が終わる。

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