SHINPA the Satellite Series #2 在宅映画制作全評論(前半)

以下は、SHINPA the Satellite Series #2の全24作品の評論である。5/1の公開直後からから書き溜めてきたもので、また、これとは別に全作品公開後に、この企画全般に関する覚書を公開する。素晴らしい力作ばかりであったが、正直に言って、(多くは技術的欠如や時間的制約等が理由なのだが)果たしてこれを完成品として呼んでいいものか判断のつかないものも、いくつかあった。だが、こういった制約があったからこそ、映像作家の真価が問うことができたとも言えるだろう(在宅映画がもたらした映像作家のあり方については別記事参照)。監督によっては、不十分な映像作品を評価されても不本意と感じるかもしれない。それでも、どれほど映像で十分に表現しきれなかったとしても、それを世に送り出している以上は、そのまま評価を行う必要がある。

公平を期すために映画監督の他映画作品についての言及は一切行わないこととする。また、この評論を書き出した当時には公開されていなかった、主催者側によるライナーノーツも一切参照しない。映像で語る仕事をしている以上、こちらも映像だけで評価を行う。

たまたまこの企画を見つけた評者は、この面々を誰一人として知らないし、何の利害関係もない。したがって、至って中立的に、だが内容については主観的に評価を下す。その場合の評価軸は★5段階で評価し、★5作品を基準とした相対評価である。

鑑賞者には、この評を参考にしながら、SHINPAの映像作品を楽しむなり、今後観るに値する「本物」の映画監督を選別するのに役立ててもらえれば幸いである。映画関係者には、この批評を通じて、一人でも多くの人が、日本の映画業界の現状について知り、より良い未来の映画制作が作られていくことを本気で祈っている。

#1 二宮健監督『HOUSE GUYS episode 1-3』

記念すべき第一作を飾る作品がクレイアニメーションというのは、長期間に及ぶ企画のスタートとしては比較的入りやすかったのではないかと思う。

それぞれの登場人物の個性溢れるキャラクターが、仲間との会話から徐々に浮かび上がり、その個性が各話の物語の軸となっていく、実に丁寧な作風となっており、テンポ良く観ることができる。一見粗雑に見える、登場人物の粘土造型も色によって明確に識別されており、さらにデフォルメされた特徴的な声のおかげで登場した途端からどういった性格なのかがわかるように設計されている。この根幹がある以上、もっと説明が少なくても十分に伝わる気がするので、人によっては会話の多さが説明過多に感じるかもしれない。

通常であれば、こういったクレイアニメーションは、観ているだけでほのぼのとし、楽しそうで、自分のこの輪に入って遊んでみたい、と思わせるものである。だが同時に、この作品は、子供向けアニメーションとは一線を画した「大人向け」の要素も含まれる。会話をよく聞くと、この映画には子供向けアニメにはない、節々に流れるおどろおどろしい暴力性が感じ取れる。たとえば冒頭の通話シーン、トイレットペーパーに挟まれて身動きが取れない友達に対して、緑色の「フラワーくん」が笑顔で「しっかり反省しな!」と同情なく言い放つところがある。この一言で、牧歌的なクレイアニメーションが、現実から逃げることを許さなくする。

聞くとこのトイレットペーパーを買いしめた「ペーパーくん」は、「ライくん」という人物にデマを流されたという。この「ライくん」は虚言癖を持つ人物であり、2話で中心的な役割を果たすことになるのだが、ここでもペーパーくんの訴えは、ドライに流される。ここでこの3人の関係において、少なくとも対等な友情がもはや存在していないことが判明する。時事的な話題も入っているところも、大人向けのクレイアニメを演出させる要素として働いている。

そんなペーパーくんは、いきなり関係性もないまま電話で意中の人物「スマートちゃん」に告白をするという決断を行う。一見するとまっすぐなお人好しな性格に映されているが、よくよく考えると、彼の不穏で非人間的な行動が見て取れる。一度も話したこともない人から突然告白されるというのは、告白される側からすれば、困惑するどころか、下手をすれば迷惑行為になりかえない。ペーパーくんは、「まっすぐな性格」というポジティブな特徴と引き換えに、相手がどう思うかを理解することができない、「共感力の低い人物像」がここではっきりと浮かび上がる(現実社会では、相手の意志を尊重しない一方的な告白行為はただのセクハラである)。

スマートちゃんは、この告白を優しく断るが、このような行為をしでかしたペーパーくんを「優しいお方」だと言い、友達になる。スマートちゃんは、これまでの3人とは異なり、常に冷静な女性(性別はわからないが、異性であることは確かである)として振る舞う。ライくんの嘘を叱り、フラワーくんの心配性をたしなめる。しかし、その冷静かつ慈悲に溢れ、時に悪いことは叱ってくれる教育的な態度は、あまりに理想的すぎて、男性の母性願望を直に反映させたような薄気味悪ささえ漂ってくる。

要するに、この物語は、「在宅の中で友達同志でおしゃべりをする楽しいお話」を表面的に描きながら、裏で「3人のホモソーシャルな空間に、理想化された異性が入り込むことで、彼らの傷が癒やされるというご都合主義的なストーリー」を忍び込ませている。心配性、虚言癖、サイコパスという三人の欠陥を相互に補う合ったり、助け合うのではなく、全てフラワーちゃんという万能的な異性に助けてもらうというメシア主義的態度は、今の社会状況をそのまま反映しているようではないか。もしそれを監督が距離を取りながら客観視できていれば、この気持ち悪さをアイロニカルに描くこともできただろう。

クレイアニメ+時事ネタであれば、単なる「コロナ説教クレイアニメ」で終わっていただろう。そうならないためにも、こうした理想化された女性=救世主に万能的に振る舞ってもらう反省的な視線が、より一層丁寧に描かれておく必要はあったかもしれない。これが意識的な産物か、無意識的な監督の欲望なのかがわかりにくかった。この女性が男性の理想によって生み出された存在である限り、全てが男性目線によって支配されている。この男性中心主義的な、予定調和を願う「引きこもり」的な態度、自閉症的な傾向に対する批判的目線が盛り込まれていると更によくなっていたのではないかと思う。

評価:★★★☆☆

#2 松居大悟 監督 『カーテンコール』

最初の全体放送が流れた後に、車が出発するシーンがある。一見、偶然撮れたかのようにも見えるほど、素晴らしいワンシーンである。だが実際には、車に乗っていた人物も、撮影者同様に、放送に耳を傾けていたのだ、ということがわかり、この状況下で皆が同じ境遇である、ということを様々な映像を通じて示す力作であった。

しかし、残念ながら個々の映像に印象が残るものが何一つなかった。というよりも音楽に映像が引っ張られていた。歌詞のラジオにラジオの画を入れたり、手を振る動作に子どもが手を伸ばす画を入れたりするが、どれもワンテンポ遅れており、完全に音楽優位となっているのは明らかであった。映像に関しては、何の美意識もなく、スマートフォンに撮った部屋の映像(部屋が汚いわけではないが、映像としてはどうだろうか)や、似たりよったりの窓の映像をかき集め、それを適当に切り貼りし、そこに中高生が好きそうな日本語ロックを流しているだけにも見えた。MVだからそれほど意味はないのかもしれないが、やはり「映画制作」と銘打っている以上、音楽に合わせた映像ではなく、音楽と映像が共存する世界観を打ち出して欲しかった。男が窓で映像を観て、曲を聴いて、眠りにつくだけでは、音楽を通じた連帯性は感じられなかった。コメント欄の方がむしろ盛り上がっていたとも言える。だがそれも映像ではなく、この音楽によるものだろう。このベランダにいた男はこのMVを見て何を思ったのか。最初の放送を聞く行為が、最後の睡眠とどのように結びつくのか。何も有機的な繋がりが見出だせなかった。最後まで「少しだけ眠ろう、君の夢を見よう」という歌詞に支配されたまま終わっただけである。

この音楽を中高生が好きそうな、と書いたのは失礼だったかもしれない。中高生に人気な曲でも素晴らしい歌詞を書けるバンドは無数にいるからだ。だが、(声や楽曲はともかく)この曲の歌詞が、はっきり言って何も響かないとんでもなく酷いものであり、それがこの映像を台無しにしてしまっているのも事実である。以下、歌詞を書き出してみる。

少しだけ眠ろう 君の夢を見よう ベランダに腰掛けて
誰もいなくなり 換気扇だけが カラカラと 回ってた
時計の針は 一周回れば 何かが変わると 信じてみたいのさ

聞こえる君の声 涙が走り出す
誰にも止められない 枯れない花のよう
忘れない あの日の青空 風の音
寂しくならないように あのセリフをもう一度聞かせて

改札の向こうで 君が手を振った
また明日 会えるかな
深呼吸三回 流れるラジオ 目を閉じて 考える
右も左も どうでもいいから
何かが変わると信じていたいのさ

聞こえる君の声 涙の帰り道 嘘つくことだけが本当のことだった
忘れない あの日の叫びは嘘じゃない
このまま離れないように あのセリフをもう一度聞かせて

暗がりの中で秘密を分け合った
なんだか不思議と 大丈夫な気がしたんだ
ここだろう

聞こえる君の声 涙が走り出す
誰にも 止められない 枯れない花のよう

さよなら いつかは散りゆく運命でも
この先忘れないよう あのセリフをもう一度聞かせて
あのセリフを何度でも聞かせて

誰もいなくなり 換気扇だけが カラカラと回ってた

果して、これを声に出して読み上げて、本当に感動するのだろうか。それらしい恋愛ソングにしか聞こえないが、それよりも質が悪いように見える。たとえば比喩の問題。「止まらない涙」と言う以上、涙は流れ、動いているのだから、そうした流動的な事象に対して、「枯れない花のよう」という静物で喩えるのは端的に言って、意味不明である(「涙・走る」で日本歌謡曲の歌詞を調べれば、「やがて汽車が来るわ/頬に涙が走り出す」、「赤いランプに/涙が走る」など、列車と涙の比喩はある)。そもそも「枯れない花」なんて現実にはないのであって、そんなないものと比較しても、具体的なイメージも出てこない。それどころかその直後で「いつかは散りゆく運命でも」と言い出し、「枯れないんじゃなかったのか!」というツッコミ待ちまでする。同様に「嘘つくことだけが本当のことだった」と言っておいて直後に「忘れない あの日の叫びは嘘じゃない」と言われても、そもそも嘘を本当だと思っていたようなサイコパスが、急にあの日の叫びは嘘じゃないとか言い出しても、一体誰が聞く耳を持つだろうか。

他にも、君といたある日のことを思い出しながら、「あの日の青空 風の音」と想起しておきながら、その後後半で「暗がりの中で秘密を分け合った」となり、こういう矛盾が至るところにある。歌詞に矛盾が生じるのは、葛藤の結果ではない。単に推敲していないからだ。推敲し、思考の限りを尽くして生じる矛盾とただ適当に綺麗なワードを散りばめて生まれる矛盾は全く異なるものである。

映像が全く響かないのは、歌に何一つとして真実がないからではないだろうか。言い換えれば、この歌詞の人物に主張すべき芯が全くない。本当のところ、この「君」もどうでもいいのだろう。声だけ聞ければもう一度良い。「右も左もどうでもいい」、「何かが変わると信じてみたい」という自分からは何のアクションも起こせない、無気力で無残な姿。先ほどの『House Guys』の登場人物にも共通する徹底的受動性だが、唯一違うのは、前者が「フィクション」であるのに対し、「歌」として歌われているという点である。どうにも歌は誤魔化しがきかない。嘘つきに載せられた映像はすべて浮薄である。

音楽に沿って映像を作ってしまった以上、曲のレベルが低ければ、どうにもしがたい。それでも、これだけの映像を集めるのは苦労しただろうし、孤独感の演出には成功していた。総じて、★2としたかったが、最後のシーンが完全に蛇足だったので★1とした(点数には関係ないが、観客同士が密をとれていなかったことに対するコメントはあってもよかったかもしれない)。

評価:★☆☆☆☆

#3 佐津川愛美 監督 『面倒くさい人』

映画監督の力というよりは、ほとんど脚本家の力で勝っているのではないだろうか。カメラに工夫はなく、電話越しから聞こえる演技も、いかにも芝居がかっており、興ざめするが、それらの不備を全て脚本の力で乗り切ることで解決し、結果的には素晴らしい仕上がりとなっている。最初の酔っぱらいシーンが長く、ここで観るのを止めた人もいるかもしれないが、できれば我慢して最後まで見てほしい。その後の会話パート以降は、比較的テンポ良く進み、最後まで大きな苦痛なく観ることができる稀有な作品である。汚い部屋のシーンからの早送り掃除シーンからのバランスボール食事シーンのエンディングは、「幸福」を体現しており非常に良かった。

それにしても、不思議なほどに「器用な」脚本である。なぜだかわからないが、観終わった後に「日テレ」という単語が頭をよぎった。独り身の若者が祖母と暮らす生活モデルは、自民党が掲げる3世代同居支援政策の一環であり、今後そういった流れは主流となるだろう。祖母中心に周る物語を『サマーウォーズ』的だ、日本会議が好きそうな題材だ、安易に断罪する時代は終わったのだろう。実際、もし家族間で家計を負担し合えれば、感覚的なレベルでの貧困は確実に解消されるだろう。感覚的貧困の解消による格差是正政策は、労働者と資本家の真の格差を誤魔化すためにうってつけである。

この作品は、コロナ以後の生活として、押し寄せる不況を想定した、リアリティのある世界を描いた、とも言えるだろう。ある意味、この後登場する田中浩美監督『Utopia part 2』(#7)よりも来たるべき現実の行く末を予期している。ただし、もちろん、そんなものは映画内では意図されていないし、ただの深読みにすぎない。この映画は、この家族にとってのハッピーエンドで収められている。しかし、同居支援政策は、一緒に住める家があったり、引っ越しが可能な状況であったりする裕福な家庭にこそ許されるものであり、まさにお嬢様として暮らす主人公はその典型として描かれており、皮肉にもこうした世相の反映となっていることも事実である。こうした社会格差問題をこの映画に露骨に盛り込む必要性はないものの、そこまで想定した上で脚本が構想されてはいなかったように思う。そのため、どこか非現実的で空疎な物語という印象が残った。

夏休みの自由研究を親に手伝ってもらった感はあるが、それでもドラマとしては一応成立していたと思うし、主演女優の演技は(酔っぱらいのシーン以外は)そこまで悪くはなかったので、高く評価したい。

評価:★★★★☆

#4 達上空也 監督 『鳩 THE PIGEON』

最初に観た時、何を言っているかさっぱりわからなかったし、画面も暗いわ、演者も怖いわで、ただただ気味が悪かった。だが、よくよく観ると各シーンに無駄がなく、矛盾なく構成されており、怪作であることがわかった。ある意味、鈴木清順を思わせる力強さを感じた。画面がもう少し明るく、映像的な美学があれば、間違いなく、今企画の傑作に位置していただろう。

在宅で映画を撮るとなると、まずは家にあるものを擬人的に語らせるというパターンはすぐに思いつくのだろう。しかし、実際に撮ってみて気付くのは、物が語るというのは、思いの外、狂気に満ち満ちているということである。森ガキ侑大監督の『HOME』(#20)は完全にこの狂気に対応する術を一切持たなかったが、こちらの作品では、その狂気を完全に芸術として昇華できていたように思う。

どうにも後半が暗すぎて、何が起きているのかよくわからないのだが、一応、「人間と絵画」(生物と静物)という対比的なテーマで、最後は、作り物の鳩が生を受け、生き物である彼が、絵画の世界に入り込む(それとも死んだ?)という逆転現象が起きる。彼が絵画の世界に入り込んだと思わせるのは、「これからも一緒に生きよう」というセリフや、彼の顔が赤かったこと(すでに絵になりかけていた)から推察できるが、ただ一方で、美人画の「またこれか・・・」は、所有者を殺す呪いの絵画を思わせる発言でもある。「俺は死ぬかー!」の必死の叫びも、本当に生き続けられる人が発しないものである。

絵の住人になり共に暮らすという終わり方は、あまりにも江戸川乱歩の『押絵と旅する男』に似すぎているが、重要なのは、彼が死んだのか絵になったかではない。むしろ「万物を愛することのできない」ことで絶望していた彼に、絵(=芸術)への「愛」という希望が残されていたということだ。ただしその愛は愛でも、「自己愛」であることを忘れてはならない(心のない対象を愛するのは、対象に投影された自己を愛しているだけである)。この自己愛から他者への愛へと変えていくことができるのが「芸術」であるということを、この監督は作品そのものを通して表現していたように思う。

評価:★★★★☆

#5 今泉力哉 監督 『MILK IN THE AIR』

「ラーメン」「動物」「子供」というテレビ視聴率戦法を地で行く映像であった。この映画では「ラーメン」の代わりに「女の子」にしているが、再生回数やタイムラインの検索を遡れば、この作戦は功を奏したと言える。ポップさ、軽快さを徹底している一方で、音楽を視聴者に委ねるという、映画館では行うことのできない、YouTubeならではのインタラクティブな要素を導入している点で画期的である。試しにスピッツを流してみたら、本当にMVになり、驚いた。ある意味で「映画」だけではなく「MV」というものの既成概念を壊す、野心作だと言えるだろう。

このコンセプトを通して、色々な作品を観てみたい気がした。この斬新な試みが、映像作品そのものを良質なものにしているかの判断が今回だけではつかなかったからだ。要するに、肝心の映像が、スピッツのMV止まりで終わってしまうのではないかという懸念である。それならカラオケボックスで流れる映像の上位互換でしかなく、わざわざ観たい代物でもないだろう。

また、映像も準備不足が否めなかった。犬は自然体で可愛かったのに対し、犬を愛でる演技をする女性には全く感情がこもっておらず、いかにも「私は今犬を撫でている・犬を抱いている」という動作で残念であった。もし、演者も犬と長い時間を共にし、犬のあらゆる行動を何百時間も撮り溜めし、その中から厳選したシーンを紡いでストーリーにすれば★3や★4も行けただろう。そのぐらいに、この犬の演技は素晴らしかったし、女性の演技がもったいなかった。

評価:★★☆☆☆

#6 近藤啓介 監督 『動物暴走教師』

今回の映像作品は、「YouTubeで見られること」を意識した作品とそうでない作品があったように思う。極端なスクリーン至上主義は、他の媒体への敬意を失ってしまうが、この作品では、そういった古い価値観は一切感じさせない、むしろ新しい媒体でも積極的に「面白い」表現を追及していた。いわゆるYouTubeカットを多用した間延びしない構成、短編を3作入れることで飽きさせない手法、カメラも基本的に固定させ、とにかく見やすさに工夫を凝らしている。

こうした工夫は、結果的にいわゆるスクリーンで観る「映画」というよりも、コント番組に近いようにも感じられた。ネタのパターンは、一つのアイデアをひたすら引き伸ばす、というジャルジャルなどが得意とする手法を踏襲している。そのため、各話の後半は、ワンパターンとなり、若干だれてくる。最初と最後のネタはとりわけそういった傾向が強いが、2つ目だけは受験生の怒りのボルテージが徐々に上がっていく変化が楽しめる。とはいえ、その怒りの向かう先も、最終的には電話を切って、ただただ沈黙するだけで次のシーンへと向かう。

要するに、コントとして見るには、各話に「オチ」がないために楽しめず、映画として見るには、お笑い色が強すぎる(リアリティに乏しい)という中途半端さが、この作品の弱点である。前話で背景に流れていた音声が、次の話の映像に持ち越されるところや、受験生の怒り方のリアリティなど、お笑いにはない映画的要素が、部分部分で作られようとしているが、うまく作品全体と調和していかない。かといって、おそらくこの作品の「ネタ」の方に目を向ければ、プロのお笑い芸人のクオリティには到底敵わない。これらの不十分な点を補えれば、いつかは映画+お笑いという異種を交えることで、喜劇映画を新たなステージへと高めることができるかもしれない。

評価:★★★☆☆

#7 田中浩美 監督 『Utopia Part 2』

コロナ以前/以後という世界の分断をうまく利用した上で、モノクロームなディストピア世界での男女の恋を描くものであった。過去の世界を理想化(ユートピア化)させることで、ガスマスクを付けて生活をする現代の人たちとのコントラストを作り出している。最初、マスクが大量に干されているのに、その後登場人物たちが平然とガスマスクをしているところには一瞬違和感を覚えるが、おそらく、マスクのシーンからガスマスクのシーンの間には時間の移動があり、生活がマスクだけでは十分ではないほどの状態にまで悪化したということなのだろう。この生活様式は既に常態化しているようで、映画の中で流れる映画でもガスマスク越しに男女が会話するシーンが流れる。この映画内映画で男が「何か欲しい物ある?」と彼女らしき女性に聞く場面がある。女性の返答が示される前に、映画を観た感想を誰かと話すメッセージのやり取りに場面は移行する。そしてその後、ガスマスク越しのキスシーンが流れる。一旦映画内映画を離れて、映画内映画での結末は、キスして終わるというディズニー的=予定調和的な終焉を迎えている。しかし、映画を観た人物の世界の終わりは? この問いがメッセージの中で投げかけられる。映画を見た人物は相手にこう問いかける。「今の現実がさ」、「もし映画だったらどんな結末なんだろうね」、「笑」。この質問は、「Utopia Part 2」を鑑賞する観客にとっての「今の現実」に対する問いともなるだろう。この映画の結末は、ガスマスクを取り払い、カラー映像で景色が晴れるという一見すると予定調和的なハッピーエンドを予感させる。だがその一方でガスマスクが取れるきっかけとなるような情報は一切流れていないことに気付くともう一つのエンディングも予感させる。室外機らしきものが置いてあるベランダでマスクを投げ捨て、飛び降り自殺をしたというバッドエンドである。その捉え方は観る人に委ねられているようである。

情報量が少なく、作品の解釈素材が限定されるため、解釈を巻き起こす面白さのある映画である。しかし、その映像の情報の省き方が奇妙なまでに教科書的で、全てが記号と化しており、言い方を変えれば「映画っぽさ」に満ちており、どこかで見たような類、新鮮さを感じさせないメタ構造に終始してしまったようにも思える。そのため、思いつく解釈も限定的で、何か突き刺さるようなメッセージは生まれてこなかった。ラストのエンディングの捉え方も詰めが甘く、それはメッセージのやり取りの浮薄さや、掃除機のシーンなどがラストシーンに収斂していかないところにある。東京タワーと桜の写真がラストと何か関係を持たせるなど、工夫の余地はまだあったのではないだろうか。何より問題なのは、この人自身の思想が特に感じられなかったことである。この映像で本当にこの人が心の底から伝えたいことは何なのだろうか。この映像に登場する人物全員になりきり、行動パターンを思考しつくして想像をすれば、記号的な退屈な展開は避けられたはずである。

評価:★★☆☆☆

#8 川島直人 監督 『12D815-6』

まず在宅で最も困難なジャンル「アクション」に挑んだという心意気が素晴らしい。ロケが大前提となるアクションスパイもの作品に挑み、制約を逆手にとり、「仕事のないスパイ」という設定の下、ユーモアを生み出していく。軽快なミュージックから、一人のエージェントのルーチン、そして司令官からの電話、「Stand by」の流れ、非常に完成された動きであった。

そして、そこで終わるべき映画だっただろう。28分22秒は全作品通じても三番目の長さであり、最も長い『シナモンガール〜なんだコレ?〜』は置くにしても、二番目に長い『面倒くさい人』に比べると、やはり脚本の力量の差が如実に出てしまっている。

たとえば、エージェントが野球ボールを爆弾と勘違いする、というところから物語が始まるが、その後はオペレーターとの中国語/日本語/英語のロスト・イン・トランスレーションに終始する。しかし観客目線に立てば、野球ボールを爆弾と勘違いするという、通常では考えられないエージェントの非常識な認識に対し何の説明もなく、さっさと自分がやりたい方向性に無理やり連れて行かれてしまう。この最初の説明がおろそかであるため、最後のシーンで野球ボールを取りに来た人も、なんでこんな遅くになって取りに来たのか、という疑問が一切解けない。全体的に自分が「これをやりたい」という我が全面的に出ており、単発ネタをツギハギしただけの世界観の押し付けがましさを感じてしまう。エージェントや彼の属する組織の設定をもう少し細かく詰めていき、整合性の取れたシナリオでないと、キャラクターに感情移入はできないし、観ていて退屈になっていく。この映画ではエージェントは無能なのか有能なのかもいまいちはっきりしない。オペレーターなどとの会話から、過去の無能エピソード(暗殺相手を間違えた、データをクラックしようとしたら自分のデータが盗まれた)を出したりすれば、「無能だけどやる気だけはある三枚目エージェント」というキャラ作りはできたかもしれない(「Stand by」と言われた理由がコロナ禍だからではなく「単に仕事ができないから」というオチも作れただろう。ただ、それでも野球ボールを爆弾と見間違えるというのはおかしいので、エージェントがあまりに仕事がないので自分で仕事をでっちあげる、という方向にし、周りが呆れていく必要があったかもしれない。そうすれば最後のウンコものくだりも、もう少し笑えたかもしれない)。

どのみちエージェントのキャラクターが全くの未完成であり、かっこ良いキャラなのかかっこ悪いキャラなのかが、終始ブレまくっていた。演技指導の程度が低いせいで俳優も役作りの難しさに相当苦労したのではないかと思う(長い時間トレーニングだけをしているようなのに、全く筋肉がついていないところなど)。この役者の舞台がかった演技力も目を見張るほどうまいものでもないが、唯一、オペレーターの女性はエージェントほど仕事に熱意を持っていない様子が妙に巧く描かれていた。顔が出て会話をするパートも絶妙であった。通常は最初にコールした段階で出すか、最後まで出さないかのどちらかだが、あのタイミングで出てくるのは意外性があり、そこを中心としながら、新しい展開も期待できた。ただの他愛もない話に終始して、ラストに花が咲かなかったのは残念だが、コンセプトとしては非常に面白いので、これを軸にシナリオを全面的に練り直して長編を撮ったら面白いものが出来上がるかもしれない。

評価:★★★☆☆

#9 菊地健雄 監督 『はさまるたいち』

メッセージとしてではなく、シンプルに日本人の陰湿な部分を垣間見てしまった。彼らは鈴木太一のロックンロールな「生き様」を撮っていると思っているのだろう。本人もそう思っているのだろう。だが、彼らはこの人間を「見世物」にして笑いを撮っているだけである。「生き様」と「いじめ文化」を混同した悪い例の典型である。

役者としての鈴木太一の「生き様」を描くのであれば、「才能があるのに、人間関係に恵まれない可愛そうな存在」として描くべきであった。鈴木の前に立ちはだかる悪い大人たちは、自分たちの「悪」を演じきれていない。鈴木をパシらせる自分は無能でただ偉そうなだけ、というみっともない存在として、役を遂行させるべきだったか、その客観化が全くできていなかった。ポテトチップスを食べながら会話するのは、無能さよりもただの横柄さだけが出てしまっていたが、本来であればあそこは、鈴木がもっと必死になったり、観客目線から「鈴木が追い込まれている、かわいそうだ」という共感の情が湧いてくるように仕向けるべきであった。

逆に言えば、改善点が多いため、傑作になることのできる映画なのかもしれない。それはひとえに、鈴木太一という人間の才能に助けられているからだ。鈴木太一をとりまく人間たちをもっと悪役に特化させて、「鈴木を追い込む嫌な奴ら」という陰湿さを客体化させてカメラに映し出すべきであった。最後のベランダのシーンは、もしそれまでの「板挟みに合う」というシーンと照応していれば、★3つは行っていた。

心のない人間は、一生ゴダールや大島渚にはなれないし、口にするべきでもないだろう。そういうことを口走る自分の情けなさ、不甲斐なさを絵にすれば、もっと面白くなるだろう。自分よりも弱い人間にそれを任せるのはただのいじめであり、自分自身の弱さを一切客観化できていない。

評価:★★☆☆☆

#10 中村祐太郎 監督 『シナモンガール~なんだコレ?~』

どんな映画にも、必ず一点だけは、褒めるべきワンシーンがあった。だが、申し訳ないが、この作品にはそれが一つもなかった、というか探す気になれなかった。企画者に対しても、他の参加者に対しても、このような垂れ流し映像を投げつけるのは、失礼極まりない態度であるし、彼の今後の人生のためにも、一切と映画からは距離を置くべきではないではないか、と心の底から思ってしまうレベルだった。

まず、タイトルからして「なんだコレ?」ではない。それを考えるのが監督の仕事であり、観客に丸投げしないで欲しい。自分なりに考えた答えも映画には1ミリも表れない。

もっとも絶句したのは、この映像が公開された直後にツイートした彼の「言い訳」である。映像以外に関しては言及を控えたいが、あまりにひどいので引用しておく。

いったい何を撮れば良かったのかこんな時。
ただ僕は変わらず、僕でしかない。
一番をそれを訴えるべきだと思った。
慰められて、励まされたりしながら生きていく。
わけもなく寂しい時、36分間付き合ってみてほしい。
悲しみはいつの間にか消えていく。
締め切った窓を開ければ、風は吹いている。

この文体には隠しきれない傲慢さが滲み出ている。まずそもそも、なぜ視聴者が36分も付き合えると思っているのだろう。

そもそも何も撮るものがないのなら、断るべきである。彼にとって、訴えるべきは観客ではなくて、主催者ではなかったか? 「僕は変わらず、僕」というのは、本当のところは「撮るネタがないのに、断る勇気がなかった僕」ではないか。

仮に「僕は変わらず、僕」ということを、本気で伝えようと思ったなら、それはそれで問題である。彼の頭に「視聴者」や「観客」といった言葉はないからだ。というか、観られることを前提に作っていたら、「付き合ってみてほしい」なんて偉そうな言い方、するわけがない。悲しみが「消えていく」かどうかも鑑賞者が決めることである。創作者は一度作った創作物を思い通りにはできない。

おそらくこの人は、たぶん本当は映画が好きでもなんでもないのだろう。会議の中で、そういうシーンや発言が節々にあった。単に映画を撮っている自分が好きなのであって、それを映せば作品になると勘違いしたまま、この世界になんとなく身を置いているのだろう。こんな無編集も同然の、垂れ流し映像を流しても、良いなんて甘やかす周りの責任も重大である。

この作品に関しては、かなり厳しい言い方だが、鑑賞者を愚弄しきった映画監督に、当然鑑賞者は応えることはない。映画内容も1ミリも触れる価値がない。「自己表現」を素朴に自分の表現だと勘違いしているのかもしれないが、ここで言われる自己とは、自分自身もまだみたことのない自己を、映画を通じて映すことである。彼が自己の内奥を今一度見つめ直すきっかけさえあれば、変わることができるだろう。だが、このような映画を良しとし続けるなら、今後は趣味で続けていくべきである。

評価:★☆☆☆☆

#11 野崎浩貴 監督 『おとといの昼間』

今回のほとんどの作品に見られるのは作品の圧倒的な説明不足である。その原因は監督の力量不足という点を除外すれば大きく二つあり、一つは単に丁寧に作り込む余裕がないという時間的制約、もう一つは映像や音、さりげない動作を通じて伝えるという映画的なメッセージ伝達機能が、技術班の不在により演出できないというのがある。当然『おとといの昼間』もそうした制約を免れてはいないようであった。だが、そこをどう補うかが監督の力量として問われてくるのがSHINPAの楽しみ方になっている。そして、この作品のタイトルにも現れているように、この映画は、何気ない日常的な時空間を描くことで(明確に描かれてはいないが、この時代における外の暗澹とした世界との対比によって)、一切の説教臭さもなく、軽やかに私たちの現実に対する捉え方を見つめ直すことに成功していた。

コロナという状況を映さないことは、まったくもって現実逃避ではない。反対に、コロナを題材としたからと言って現実に向き合ったとは言えない(たとえば#13『第七銀河交流』はコロナをあくまで主観的な価値観だけで語ることに終始させ、客観や現実、他者といったものとは向き合おうとはしていない)。本当に見つめなければならない現実というのは、ニュースで報道される感染者数などではなく、自分の身の回りにある何気ない、記憶にも残らない「おとといの昼間」みたいなものである。その重要性をこの監督は、楽しい遊びや、日常的な家事作業という穏やかな映像を通じて、丁寧に伝えている。

一人で作りきった監督の才能は確かなものだが、もし優秀なスタッフ(とりわけ音声と編集)に恵まれたら、この構想にもっとしっかりとしたパッケージングが出来上がっていたことだろう。たとえば声域が限られているため、あの声の正体が実はおばあさん、というのはかなり無理があるため、映像の切り替わりにも、大きな意外性が出せていない。猫の鳴き声も低すぎるし、ボリュームの調節、効果音の追加もあって欲しかった。脚本に関しても、もう少し説明の仕方に工夫が必要だっただろう。『12D815-6』の野球ボールほど極端ではないが、セイウチの「外に出て巨大生物と戦う」という発想が突飛であるため、トラにもっと早く諌めてもらうか、観客に対して「なぜ戦うのか」という背景を説明すべきであった。それこそ、「猫が家の中に入って荒らすので今日こそ退治をする」といった単純な背景を説明するだけでも良かっただろう。そうした動機が明確になれば、彼らの戦いの意義も見いだせるし、それが後半のおおばあさんパートで、おばあさんが最後に猫と対峙するときの意味も、もう少し出せていたかもしれない。人形パートとおばあさんパート双方に登場する「猫」という媒介者を活用しきれていなかったのは残念であった。もちろん、「おとといの昼間」という、危機的な状況においても見いだせる「日常」を映し出すというテーマがある以上、伏線を仕掛けすぎてあまりストーリー仕立てにもしてしまうとあっという間に日常が非現実的になってしまうため、この辺りのバランスは難しい。しかしそれでも、日常的な風景を淡々と映し出すことと、映画的な展開の折り合いは、もうひと工夫あってもよかったはず。

セイウチやトラ、ゾウの役の分け方は上手く、『HOUSE GUYS』以上にキャラの演技力がうまく、憑依していたのでこの監督は監督としてだけではなく演者(もしくは声優)としても確かな表現力を持っているように思われる。

評価:★★★★☆

#12 大野キャンディス真奈 監督 『人形』

前の監督に続き、人形がテーマとなっている。前の監督と決定的に違うのは、演技力が致命的であるという点である。ただし、そこは技術的な制約でしかない。この映画が素晴らしいのは、どのシーンも細部まで作り込まれていたことである。前半は取り立てて言うことはないが、後半、とりわけ5:58からの手芸道具(ダリオ・アルジェントの『サスペリアPart2』を思わせるシーン)が映る映像から、別人が撮ったのかというくらい一気に世界が切り替わる。とにかくコマ撮りが一人で撮ったとは思えないほどの秀逸さで、リンボーダンスをさせるシーン、人形が倒れないようにトイレットペーパーに入れて立たせるシーン、クマがベッドをよじ登るシーン、すべてが丁寧で独創的であった。BGMが「くるみ割り人形」、本棚にモリエールの『人間嫌い』をしまうシーンなど、一瞬ではあるが、何度も見返したくなる映像を作り出していた。今回の作品の中でも、芸術の示唆的な魅せ方を知っている数少ない監督の一人であった。

一つ、気になったのは人形が人間を終始「神」と呼んでいるところである。彼ら人形たちは、自らを作り出した造物主としての神殺しを敢行するのだが、それは自ら、次の世代の誕生に終止符を打つ行為でもある。人形たちは、自分で自分の首を絞めていることには気付いているのだろうか。彼らは神をすべて殺した後、どこへ向かうのだろうか。その葛藤が十分に描かれていないところには若干の疑問を覚えた(神殺しを「親殺し」というテーマに置き換えても良かったかもしれないが、それでも人形側に葛藤はありえただろう)。「会議を重ね」という箇所を「悩みに悩んだが」と言い換えるだけでも違っていたかもしれない。

人間には死ぬまで人形を大事にする人もいるし、家族同様に大切にする人もいるだろう。「種」としての人類=神に反省を促すと同時に「個」としての一人の生きた人間にも目を向けて、そこに一縷の望みをかけられなかっただろうか。監督のメッセージは、人形vs人間というシンプルな枠組の中で語られるがゆえに強烈ではあるが、その中にある複雑さにもスポットを当てることはできなかっただろうか。監督の今後に期待したい。

評価:★★★★☆


#13 岩切一空 監督 『第七銀河交流』

在宅という状況は、見方を変えれば「引きこもり」だ。新型コロナウイルスの蔓延で自宅で怯える「ぼく」は、「世界的危機」に立ち向かうことのできない「気弱なぼく」である。この「弱い僕」の話し相手になってくれる通話相手である女性の「きみ」は、この「ぼく」に対し、優しく話を聞いてくれる「母性的な存在」だ。そして、3.11以後やコロナ以後で、価値観が変わるなんて「面倒くさい」し、「死にたい」と泣き言を漏らしたい。大事なのはいつだって「きみ」と「ぼく」との関係であり、他の人達は関係なく、亡くなった人々のことも、念頭にない。すべては「ぼく」の妄想の延長線上にいるから、「きみ」もまたすべて思い通りであって欲しい。閉じ込められた小部屋という小惑星の中で、「ぼくたち」は遠く離れた所から、今日も言葉を交わし合う……。いつまでも「きみ」に会いたい「ぼく」……。脈絡もないショットの繋がりや、劇中に流れる、IIDXの音ゲーのような疾走感のあるD'n'B風の音楽、すべてがこれまでの映画とは「一線を画している」。新鮮さ、そう、字幕での独白や、フラッシュカット、アイドルのように可愛らしい女性……。何かに似ている。これはセカイ系なのではないか?

「世界的危機」という状況を前にして、セカイ系はゾンビのように回帰してくる。この手の映画は、この後も雨後の筍ごとく出てくるだろうが、この映画はそのパイオニアとして位置づけられるだろう。『MILK IN THE AIR』同様、女の子が映像の大半を占めるこが、これは「かわいい」という空疎な評判を勝ち取る誤魔化しの姿勢よりかは、むしろ二宮健の作品にも通じる「母性的な女性」への引きこもりという解釈の方が正しいだろう。ここに出てくる女性は、男性=監督的権力に極端な抵抗などしないし、男性の欲望の思うがままに振る舞ってくれる。おそらくゼロ年代の同時代人ではなかったであろう監督は、それでもこの遺産を引き継いで、この世界的状況を「ぼく」の閉鎖的空間へと閉じ込めることに、再び成功した。

ここにあるのは、昔懐かしいポストモダン的な宙吊りであり、母子未分化の状態でLCLに満たされたい弱音を吐く「ぼく」。自分がどうあるべきか、何をすべきか、などという解答は、わからない。実際、彼/彼女らは、家にいるのに、周りの目線ばかり気にして、自分の主張なんてまるでない。社会に向けて、何らアクションなど起こす気力もない。ストーキング行為を行う男性は、一見アクティブに見えるが、目指すのは母性的な優しさを持つ女性との同一化でしかない。それは社会からの逃避であり、積極的に自閉へと向かう行為である。母親である彼女は、警察に通報するほどに危険な男のストーキング行為・ハラスメント行為を決して強くは拒絶せず、やんわりとした拒否感しか示さない。彼は一体化の願望を推し進め、やがて樹となる。そしてそこには、彼の求める、汚れを知らない澄んだ世界があった。

何一つ変わっていない。セカイ系の決定的弱点が乗り越えられていない。セカイ系は「ぼく」を中心とした「きみ」との関係でしか世界が存在しえないため、物語が極端に狭い視野で語られる。社会的制約によって出かけなければならない人や、震災やウイルスでの死者や医療従事者らに対する視点、死者への思いやりなどは全て無効とされる。したがって、最後のアフリカの少年たちも空疎な「記号」としてしか表れず、彼らとのコミュニケーションは絶望的である。ただひたすら、無力感だけが残される。セカイ系に欠けているのは、「人間的な何か」である。かつて、セカイ系という言葉を流行らした批評家が、セカイ系は我々に何かを与え、何かを奪う、と語っていた。今それを強く思う。この映画もまた、我々に「甘えられる環境」を与えようとし、自分たちの力で考えるべき何か、大事なものを奪い続けようとはしていないだろうか。この映画は良い/悪いで語れるようなやわなものではない。20年以上経って、未だにこのような「弱さ」に惚れ込む未熟な大人(中高生はまだしも)が日本にいるという事実は、はっきり言ってシャレにならず、この略奪行為に視聴者は耐えられるのか、試されていると思った方が良い。今日も自身の願望充足のために動物的な生き方を謳歌していくだろう。だが、それは未来を想像する力を奪うのではないか? もちろん、この映画はそうした愚かさに警鐘を鳴らす啓蒙的な映画ではないだろう。そうなってしまってはセカイ系は成り立たないからだ。したがって、いまだセカイ系は乗り越え不可能な壁として、自ら「名作・伝説」化させる機能を繰り返している。

一点内容とは別に、気になった箇所があった。男が暴走し、下北沢から高円寺の彼女の家にまで押し込むシーンがあるが、この間なぜ女性は一度も警察に通報しなかったのだろうか。これは、女性=母親という理想化が施されているため、と解釈したが、やはり4回目あたりの無理やりな誘いで、観ている側としては、ほとんど犯罪行為に抵触しているのでは、という危機感を抱かせた。単に、監督にとって「この男は、今違法行為を行っている」という状況を客観的に映すだけの配慮がないだけなのか。それならまだわかるが、これを違法だと思わない監督本人の感覚の鈍さがあるとすればこの感覚的なズレは問題である。前者であれば、これで警察に通報したら、女性側は今後の仕事に影響が出るからできない、くらいの葛藤が映されていても良かっただろうと思う。ただ、もし今の日本映画界にセクハラ・パワハラ気質が皆無なら、このような葛藤はそもそもありえないし、嘘になる。だからこそ、即友人に相談したり、警察に通報していたりするだろう。しかし、それをしなかった。これは単に表現の問題だけで済まされればよいが、監督の価値観に関わるところであれば、やはりこのあたりの感覚のズレは、ワインスタイン予備軍を思わせてしまう。コロナ以後の映画は「面倒くさい」ものだとしても、#MeToo以後に異常性欲男性中心主義的ホモソーシャルのぬるま湯で楽しく過ごしていくことは面倒事とはしてはならない。フェリーニは『女の都』で男根主義の不可能性ときちんと向き合った。このセカイ系監督の場合は、単に「女がいっぱい出てくる」というところを真似るのだけが精一杯で、まだそういった思想的な背景を考えるレベルには達してはいないのかもしれない。セカイ系は強力なジャンルである。この監督には、受動的な泣き言めいた従来のセカイ系への批判を踏まえ、本当に世界を変革させるための「セカイ系」を撮れることを目指せるだろう。少なくとも、それを行うくらいの才能はあるだろう。

評価:★★★☆☆


#14 小村昌士 監督 『Pana』

部屋の一室を定点で映し出し、そこで生じる心霊現象と霊媒師に翻弄される気弱な男を描いた、コンパクトなまとまりのある作品であった。最初の怪しげなBGMと呆然とした男のシーンから即座に霊媒師に連絡するところは、正直共感ができないのだが、一般的な行動なのだろうか。チラシを見るとか、以前から悩まされていたとか、心霊オカルト系をガチで信じている系のキャラであるとか、そういった意味付けがないまま淡々と霊媒師に相談する、というのが霊媒師のキャラ以上に怖かった(遠隔除霊10万円にすぐ納得して支払うところも全く共感できない)。ただ、霊媒師のキャラクターも、気弱な相談役もハマり役で素晴らしかった。逆に、この雰囲気に観客がハマれないと20分は厳しいものがある。

キャラクターは面白いが、この「キクタ」という男の霊媒師という職業に対する考え方は十分に描ききれていなかったように思う。前半、うさんくささは非常によく出ていたが、「き・く・た」と、「反転させてください」にあまり大きな展開がないのは残念である。「気持ち悪い行動をして霊を逃している」という設定にしているかと思えば、深夜のシーンでは霊に対して高圧的な態度を取る。本当に除霊をする気があるのだろうか、なぜあんなに態度が豹変するのかもよくわからない。自分の仕事にプライドを持っていて、除霊できていないということにイライラしているわけでもないし、単に寝起きに電話されてムカついているのだとしたら、霊媒師としては失格だが、それに対して怒りもなく無反応でいる主人公の心理が今度はよくわからない。結局この相談している男が一番ヤバいということに尽きてしまう。もしかしたらオチも「パナねー」ではなく、相談する男の異様さへ反転していくとした方が面白かったかもしれない。

映像は定点にしては構図が今ひとつである。日中のシーンは、日時も時間帯も違うのにハブラシの向きが一緒になっており、時間の変化がわかりにくい。単に実際には同日に撮ったのではないかと思ってしまう。HMの紙袋が乗っている棚のところに掛け時計をするとか、時間の経過がわかる工夫があった方が良かったかもしれない。せっかく置いた花も、映像的にも脚本的にも活かされていない。「花も効果がなかった」ということは訴えても良かったし、キクタに対し一点攻勢を仕掛ける展開も十分考えられた。

評価:★★★☆☆

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