在宅映画が暴き出す作家主義の「終焉」:SHINPA the Satellite Series #2 在宅映画制作をめぐって

(*この記事は5月に書かれたものです)

2020年、新型コロナウイルスは、尊い人命を奪うと同時に、世界の誰もが予想しない動乱を巻き起こした。既に失調をきたし続けてきたのに巧妙に隠され続けてきた現在のグローバル資本主義が孕む諸矛盾を、ジャーナリストや革命家以上の効率とスピードで、次々と暴露し続けた。米中関係は更に悪化の一途を辿り、休業要請は増えすぎた非正規雇用の息の根を完全に止めようとしている。経済格差が生み出す感染者の階級格差や、黒人・アジア人への人種差別も止まるところを知らない。

そんな最中、このウイルスは、気まぐれにSHINPAという日本の映像集団に「在宅映画」というコンセプトを授けることになった。そして24人の選ばれし若き映画人たちがこのテーマに挑むことになった。だが、ここでもまた、誰も思いもよらない結果がもたらされた。それは、これまでうやむやにされてきた、明日を担う日本の映画監督の「脆弱さ」、「無能さ」が一瞬にしてすべて暴露されてしまったという事実である。

このような言い方にはすぐさま語弊を招くだろう。初めに断っておくと、この「無力さ」は、今回の騒動から派生した「在宅」という現象が与えた必然的な事態であり、この企画に臨む以上、決してこの無力さから逃れられる例外などはない。むしろ、この困難に立ち向かうことを決めた24人の尊い覚悟には最大級の称賛を送らなければならない。SHINPAで公開された24作品の中には、この新たな「無力さ」というテーマと向き合った非常に優れた作品がいくつか公開されており、この企画や参加者たちとも誰一人何の縁も所縁もない人間が批評したいと思わせてくれるほどには、素晴らしい映画を生み出した企画であった。

映像作品内だけではなく制作現場でも「外から一切出ないこと」というのは、既存の密室芸的な映画とは一線を画した全く新しい試みであるように思う。そして、この企画が陽の目を見ることないまま、突出した映画芸術作品が低い再生回数のまま埋もれていくのは素直にもったいないし、一人でも多くの人に、素晴らしい映像作品に目を向けてもらいたいという願いでこの記事は書かれている。

だが一方で、正直に言わなければ嘘になってしまうこともある。多くの視聴者にとって、映像作品の半分近くが、一般的な視聴者にとって最後まで観るに耐えない有様であったことは、疑いえない事実である。当然、「実験的な企画だから」と割り切ることも必要だ。だが、この事実から決して目を逸らしてはならない。少なくとも映画関係者は、この企画を受けて、日本の映画監督に今後「作家主義」の名に値する芸術性を備えた監督が出てこなくなる可能性とも向き合う必要さえある。

この記事では、まず、この企画が生み出した「在宅映画制作」というテーマの画期性と、それが浮き彫りにした事実を明らかにしていきたい。次に、この企画で生まれた全24作品の寸評を勝手に行う。この企画は、今はまだその予感がほとんど感じられないかもしれないが、今後間違いなく、映画史に残る「事件」となるだろう。もし、まだ観ていない視聴者、あるいは途中で観るのを諦めた視聴者がいたら、是非とも、この記事を読みながら、SHINPAのYouTubeチャンネルに行き、もう一度何作品かを観てもらえたら幸いである。

映画を短期間で一人で作るという絶望的な「無力さ」

新型コロナウイルスと「連動」したこの企画は、映画監督における「無力さ」が二重にあることを、極めて鮮やかに暴露している。1つ目の「無力さ」は、映画監督が本来的に脆弱な存在であるということである。彼/彼女は、一人では映画を撮ることのできない赤ちゃん同然の存在である。この事自体は何も悪いことではない。プロデューサーはもちろん、演者が、脚本が、撮影が、音響が、衣装が、メイク、etc.があって成り立つ総合芸術、それが映画である。これらをすべて限られた期間で、一人で賄おうとすれば、必然的にクオリティは落ちざるをえない。だからこそ、映画監督は、こうしたスタッフたちに感謝の意を込めて常に映画を撮っているし、そうでなければならない。これは作り手にとっては当たり前の事実であるが、受け手にとってはかなり新鮮だっただろう。

さらに言うと今回の企画は「一人で撮る」自主制作とも異なる様相を呈している。映画青年が映画への憧憬から、一人でカメラを回して撮りまくるのとは全くわけが違う。今年の1月、2月時点では、ほとんど誰もが意図していなかったこの状況、この突如与えられた試練の谷底に人々は叩き落とされ、それに追い打ちをかけるように、企画者によって突如映画を撮るように強いられたとき、それぞれの映画監督は考える間もなく、深淵の中で、まず「一人で撮る」ことよりも先に「一人で撮れないこと」と向き合っていた。

こうした二重に外部から到来してきた偶発事に、多くの映画監督は戸惑い、狼狽しただろうと想像する。もちろん、そうでない人もいたであろうし、実際の撮影現場はそうでもなかったのかもしれない。だが実際に、多くの作品から、その苦悩は映像を通じてダイレクトに伝わってきた。

映画監督は、この地獄の谷底で「一人では撮れない」という現実と向き合うことで、己の「無力さ」を再発見していく。これは絶望的な発見であると同時に、闇の中で微かに光る、創作への希望の一筋でもあるだろう。しかし、この光だけで、行く先も見えない、闇のような谷底から這い上がるのは決して容易ではない。多くの監督はこの絶壁を登ることを諦め、いくらかの言い訳を携えながら、小手先の映画で誤魔化すことになってしまった。

無力であることと向き合った監督、逃げた監督、気にしない天才

ここにこそ2つ目の「無力さ」がある。自分の無力さと向き合わずに逃げた真の「無力さ」が。ある者は映画から逃げMVやお笑いコントに走り、またある人は無力さを主張するだけの空疎な自己言及的構造に陥った。ある人は、美女を映して間を持たせたり、またある人は脚本や映像をプロに頼み誤魔化そうとした。言葉の本来の意味での「地獄絵図」である。最も酷いものは、ただ映像を垂れ流すだけで、「ありのままの自分」を見せるという恐るべき試合放棄までやってのけた。

このような地獄の中で、いくつかの少数の優れた映像作品を撮った監督たちがいた。彼/彼女らは、地獄の中で悶え続ける亡者たちを尻目に、才能という名の美しい翼によって、大空へと飛び立っていった。才能のある人は、自分たちが無力であることなんて、最初から知っているし、自らの軸があるからどれだけ外的な要因によって乱されようとも、自分の心を冷静に落ち着かせる術を心得ている。制作スタッフの不在により、技術の無さが露呈しようが、ほとんど悩まずに、本当に美しいと思えるものを見つけることができるし、それを撮れば芸術になることも知っているのだ。

新型コロナウイルスから生まれたこの企画は、おそろしいことに、誰も幸せにさせない、悲劇的な映画を量産し続けてきた哀れな映画監督たちの存在を暴き出すことに「成功」してしまったとも言えるだろう。「在宅」という制限から生じる、「技術の不在」によって、結果的に監督の本領が問われることになったからだ。それは、何らの思想的核もなく、「自分らしさが大事」とか「リアルを撮る」とかをお題目のように唱え続けて、幼稚な「映画風」を撮り続けてきただけの無知蒙昧な映画監督と、自分の弱さと向き合いながら、粘り強く対話を続け、作品に止揚させることのできる能力を持った映画監督を見分ける絶好の機会となってしまった。

ところで、我々鑑賞者たちは、こうした映画を「つまらない」といって切り捨てて良いものだろうか? こんなにも無能な監督たちをこれまで見逃し続けてしまったのは、これまで最新の映像技術にごまかされ続けてきた観客の責任でもあるのではないだろうか? それとも、いくら監督の能力がなかろうが、最新のカメラ技術、教科書化されたシナリオや、編集ソフトによって、享楽的によって映画が楽しめるなら、それで十分だと言うのだろうか? どちらの立場にしても、ここから導き出される結論は一つだけである。日本ではもう作家主義が終焉を迎えようとしているということだ。今回の企画で発表された作品は、紛れもなく映画監督個人の表現である。そういう制約が課されている。そして、その表現がことごとく劣悪なものであるという残酷な事実は、作家主義に値する映像作家が、死滅しかけていることを意味している。この徴候は、何年も昔から、囁かれていた事実である。今回、コロナウイルスに便乗した企画者が、この惨状を世間に暴露してしまった。

作家主義以後の映画のために

しかし、これで映画が終わったわけではない。この惨状から立ち上がらなければならない。

SHINPAの映像作品を一つ開いて、つまんないと思ってそっ閉じした視聴者たちに、一つだけ、問いかけてみたい。たしかに、つまらない映画は時間の無駄だ。ここ十数年で、日本で本当に心に突き刺さる素晴らしい映画を撮れる映画監督がいただろうか? 特に何も考えることなく、何となく良い雰囲気だからという安易な理由で良い映画だ、と評してきてはいなかっただろうか? 今ここで語られた現状を念頭に置いた上で、再度、苦痛を感じながらでも、もう一度見直して欲しい。そして問いかけて欲しい。

映画を愛好するもの、映画学校で映画を教える者、映画を撮りたいと思っている者たち、映画に関わる全員に、もう一回考え直してほしい。この無残な事態から再出発するためには、何をすべきか。少なくとも自分の「ありのまま」を映し出すことでもないし、ありとあらゆるシネフィル的な知性を動員させた「おふまえ」を醸し出すことでもないだろう。マーケティングを駆使した映画でもないし、個人主義を貫くことでもない。自分の頭の中で広がる世界を想像し、それを限られた時間の中に収めるべく思考の限りを尽くし、そしてそれをカメラを通じて入念に表現すること、ただそれだけである。

この記事では、SHINPAで公開された映像作品の大半が見るに耐えないと断言した(もちろんすべてではない)。その原因はスタッフ不足だけではなく「元からつまらない日本映画監督の作家性が、今回の映像技術や制作スタッフの不在によってすべて暴露された」だけとも言える。最後に、このつまらなさが生まれてしまった根本原因について私見を述べて終わりたい。

つまらない映画監督たち全員に共通するのは、端的に言って「思考力の欠如」と「愛する能力の欠如」である。映画とは「愛の表現」であり、愛なくして映画は成立しない。もちろん、マザー・テレサのような慈愛心とか、単なる恋愛とかではないし、ましてやシネフィル的な「映画愛」とかも全く関係ない(シネフィルがとくでもない映画しか撮れないのは映画への愛しかないからだ)。愛するというのは、他者への愛である。愛とは、他者(自分の無意識的主体も一つ他者である)の中に入り込み、自他の区別がなくなる、未分化の状態にまで踏み込む経験である。そして、この愛の表現とは、こうした未分化状態を一旦知的で客観的な分析作業によって掬い上げていくことである。要するに、表現を行うためには、冷静に思考する力が必要なのだ。言い換えれば、映像作家に求められるのは、思考と情動の緊張関係である。

この弁証法がわからないまま映画を撮っても、映画にはなるわけがない。大半の映像作家は、情動に突っ走り、未分化状態から抜け出せず、ナルシスティックな自己表現を撮り続けている。考える力を、学校でのお勉強か、はたまた映画の知識程度にしか考えていない。映画には映画にしかないロジックがあり、その特殊な論理を自らの頭で解いていかなければならない。この冷静さを失った状態で、良い映画など作れると本気で思っているのだろうか?

かつてはそうした知性のない映画監督は才能がないので埋もれ、消えていった(一部世渡り上手の無能もいただろうが)。だが、近年は映像技術の進歩が、その無知と自己愛の隠蔽に一層拍車をかけている。才能がないのに、才能があるように見せかけるテクニックやソフトウェアがますます進歩していっている(これは映画業界に限らず、音楽業界などでもそうである)。無力さと向き合わない真の意味での怠惰な「無力さ」が映画界に蔓延し、作り手も、受け手も、みんながこの愚かしい状況に気付きにくくなっている。

「無力さ」と向き合うことは、人間を知る最も良い機会である。人間を知るとは、他者と感情を共有することであり、他者の身になって考える契機を持つことである。この共感的感情は、思考と不可分である。共感力と思考力、この2点が突出して高い映画監督は、いかに機材がなかろうと素晴らしい作品を撮っていたことだけは繰り返し述べておきたい。

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