宮坂広作 『転形期の社会教育』 1978 IV 社会教育組織論 2 PTAの組織論

PTA役員論

役員の機能と類型

 PTAの「役員」とは、ふつう会長・副会長・会計・書記の四役をさしている。PTAによっては、委員長(部長)の正副または正のみを「役員会」の構成メンバーとしているところもあるから、このばあいは委員長も役員ということになる。しかし、狭義の役員とはやはり前記四役のことであり、委員長が参加するPTA執行機関は、実行委員会あるいは運営委員会などとよばれるのがふつうである。
 ここでは、狭義の役員のありかたについて論じるつもりであるが、役員がもつべきリーダーシップの内容には、委員長が発揮すべきそれと共通なものが多いはずであるから、実質的には委員長論をも兼ねることになろう。
 ただし、役員と委員長(委員長が代表する委員会)との役わりには基本的な相違がある。委員長はPTAの具体的な活動を担う機関であり、役員(集団)の方は、そうした活動を支え、あるいは機関のあいだの調整をおこなうことを任務とする。つまり、役員の任務は集団を維持する機能であり、委員会こそが生産的機能を発揮すべきなのである。
 だから、PTA会員の意識が高く、委員会活動が活発に展開されているようなPTAでは、役員があまり出しゃばる必要はない。事務局として縁の下の力もちに甘んじていればよいのである。こういうばあいには、鋭い問題意識をもった、行動力のある役員よりも、どちらかといえば地味で堅実な、家計のやりくりにたけているような常識的人物の方が役に立つ。
 だが、PTAが沈滞し、活動がマンネリ化しているようなところでは、役員が積極的にリーダーシップを発揮しなければならない。このばあいは、守成型の役員ではなく、攻撃的な性格の持ち主の方が望ましい。しかし、沈滞しているPTAほど現状変革を求めず、無難で凡庸な人間を役員にすえたがるものである。
 いま、日本の大方のPTAで、役員に推される人間といえば、ほぼ相場が決まっている。第一に、学校側(つまり管理職)のメガネにかなった人物。学校がわに対してはけっして文句をつけず、むしろ唯々諾々としてその意向を代弁する。会員の中から不平や不満がでてきたとき、これを圧えつけるか、うまくはぐらかすことができる人。地域で重い役職についているか、とにかく社会的地位があって、会員にニラミがきく人物である。教育委員会や行政当局に対して顔がきき、いざというとき金でもモノでもとってこれる実力者が会長に推され、書記や会計に婦人の会員を入れて、雑務をやらせるということになっている。
 権藤与志夫(九州大学教育学部助教授)氏によれば、昭和四十六・四十七年度における、福岡市の小・中学校PTA会長の職業は、自家営業をトップにして、会社役員、農業、公務員、会社員、医師、漁業とつづき、上位の二つが全体の約半数だという。かれは、福岡市のばあい、「年齢四十〜五十歳で経営者クラス、在任年数一〜二年というのが、最も多くみられる会長像」だといっているが、これは都市型PTAの会長の代表的なプロフィールと考えてよいだろう。
 かつてあるひとは、地域における教育の分野での発言権の序列について、教育委員——社会教育委員——PTA会長という三段階を示した。PTA会長を何期かつとめて、PTA連絡協議会の役員になり、そのボストのゆえに社会教育委員に任命され、幸運だと教育委員に昇格するというのが、「民間教育指導者」のアガリ双六だ、というのである。してみれば、PTA会長とは、地域の教育界における三流ボスということになる。
 PTA改革に志しているひとの中にも、役員人事の問題に異常な熱意を示すひとがいる。役員をこちらがわがにぎらなければ、なにひとつ改革はできないというのが、その大義名分であるが、役員の機能ははたしてそんなに絶大であり、役員をにぎることが決定的なのであろうか。
 役員が学校がわべったりであったり、保守的、反動的であったりすることができるのは、それを許し、支持する会員がいるからである。一般会員がそんな意識水準であるときに、役員をよしんばこちらがにぎったところで、上からの啓蒙をおこなうことくらいしかできないだろう。
 ボス役員に対しては、その非を会員の前に明らかにし、会員の要求に従って行動すべきことを提言しつづけるべきであるが、なによりも大切なことは、会員の要求水準を高めて、ボス支配を望まず、ボス支配を拒否するような意識を確立することである。にぎる、にぎらないよりも、その方が肝要なのである。

革新的役員のディレンマ

 日本の大方のPTAでいえば、こんにち依然として地域ボスが会長や副会長におさまり、かれらの遅れた教育意識やPTA観にもとづいて、無為無能であるにとどまらず、PTA改革の努力に敵対しているであろう。
 公立高校の学校間格差をできるだけ縮小して、受験競争をなるべく緩和しようとする、高校入試制度改善の努力に対して、多くのばあいPTAの幹部が異識を申し立てている。東京都では高校PTAが、長野県では小学校のPTAが敵対した。東京都の中学校P連の代表が、初め是々非々でいくという慎重な態度を表明し、最終的には入試競争緩和の方向に賛成されたのは、例外的なことであって、おそらく母親たちのつよい働きかけの影響であろう。
 PTAの会長や、会長たちによって構成されるP連(P協)の代表者が、各種の審議会に参加し、かれらの意見がPTAの要求だとみなされる現状からすれば、役員が反動的であったり、無能であったりしたのでは、たしかに子どもたちの教育を受ける権利は充足されない。われわれは、もちろんPTA役員の人事に対して無関心ではいられない。
 ただ、くりかえしいうように、この種の役員が推し出され、しかも権力をふるっているのは、それをみとめる会員多数が存在するからであって、その基盤の変革なしには、よしんば役員人事をにぎってみたところで、どれほどのこともできるわけがないだろう。
 だから、PTA改革に志すひとは、役員争奪戦に熱中するよりは、会員意識の変革に努力すべきである。こういう問題意識からすれば、ここでのPTA役員論は、反動的な役員をいかに告発し、批判し、その座から追放し、民主的役員をいかにしてその座に就けるかという権力奪取論にはならない。
 むしろここでは、PTA改革がすすんで、民主的役員が登場してきたようなPTAにおいて、役員はなにをすべきかについて問題提起をしてみたい。大都市のばあいなど、こうしたPTAや役員はもう珍しい存在ではなくなってきている。進歩的な学者、あるいは教育学者がPTA会長になった例も、われわれの身近にある。
 進歩的勢力は、体制批判をやっているかぎりかっこうがいい。権力者を告発する役わりではさっそうとしている。だが、革新首長になったばあい、どこまで原則を貫徹しえているか。また、どれだけ現実が改革されたか。民主的役員にも、革新首長に似たような困難な条件や悩みがあるにちがいない。
 進歩的・民主的な役員がおかしやすい誤りには、大きく分けて二つある。それは、「大衆引きまわし」と「大衆追随」のことであるが、前者は役員の考えを会員におしつけ、会員を動員し、会員を服従させようとするやりかたであり、後者は方針や原則をもたず、会員の気分や好みに応じて右往左往する態度である。
 大衆引きまわしなどということは、ポス会長のような運中のやることで、いやしくも民主的・進歩的な役員ともあろうものが、そんなことをするはずがないという意見は浅はかである。主観的には大衆の意見を尊重しているつもりで、実さいにはこちらの意見を強引におしつけている、ということはよくあることだ。
 民主的・進歩的役員というのは、たいていのばあい弁が立って、論理的な話ができるだろうし、正論を吐きもしよう。時には、「教育権」だの、「発達」だの、「指導要領」だの、専門術語めいたものも出てくるかもしれない。口下手な大衆の方は、ろくに反論もできず、言い負かされて沈黙するかもしれない。しかし内心では役員の意見に賛成しているわけではない。役員の方は、議論に勝って、しかし実は孤立をふかめている——こんな光景が、あちこちでみられはしないか。
 大衆追随がおこりやすいのは、右のような大衆引きまわしの失敗をおかすことを恐れ、「押しつけはいけない」「ハネアガルのは危険だ」と考えて、過度に自己規制することからである。とくに、役員会や運営委員会で進歩派が少数なとき、当然こういう抑制がつよくはたらきやすい。
 こういうばあい、役員はどんな意見に対しても、「あなたの考えももっともである。しかし、他面を考えれば……」などと述べて、相手を立てようとし、やがてはしだいに折衷的な意見を述べるようになり、「まとめ役」になってしまいやすい。学校管理職やP連のポスとのつきあいがふかくなるにつれて、だんだんかどが取れ、自己主張できない人間になったりする。
 大衆動員主義と大衆追随主義とは、一見正反対のようにみえる。しかし、大衆をほんとうの意味で信頼していないという点で、両者は共通の根を持っているのではないか。

民主的役員のリーダーシップ

 もちろん、PTAの役員などやると、ものの考えかたがみんなくずれてくるなどといっているのではない。そのような転向なり堕落が生じるには、よほど環境がきびしく非人間的であったのか、または主体のがわに弱点があったのであろう。
 では、PTA役員として、このようなワナにはまることなく、改革の理想を堅持して意味のあるしごとをするにはどうすればよいか。
役員のリーダーシップのありかたについて考えるとき、かつて宮原誠一先生が「世話役おぼえがき」として、「ちょっとした五つの心がけ」について書かれたことがある(『日本のPTA』、宮原誠一教育論集、第四巻「家庭と学校」351〜358ページ)。「ひとの話のききじょうずになること」「一人舞台をしてはならない」「確信をもて、しかし我にこだわるな」「原則的な手続きの点で妥協してはならない」「他人のことの噂話に加わらないこと」の五つがそれであるが、現役のPTA世話役であり、PTA活動のキャリアが十年に及ぶ筆者は、右の戒めをまだろくにまもれていない。かなりの精力を注ぎながら、みるべき実績をあげていないのは、まさにこのような初歩的ではあるが、もっとも基本的な行動様式を身につけていないからである。`
 ただ、右の「ささやかな心がまえ」は、単に役員・委員の人間関係処理のテクニックとしてのみとらえるべきではない。「民主主義的な社会生活への日本人の自己訓練の第一歩」として理解すべきなのである。
 つまり、人間関係の問題というのは、社交術としてではなく、人間同士の、人間としての共感の上にきずかれた連帯を創造しなければならない。役員が、自分の意図する方向へ会員大衆を動かそうとする、大衆操作の意識を持ったとき、もはや役員と会員との関係は人間的でなくなってしまう。動員もしくは操作の発想に立てば、会員の主体性、その創造性は軽視され、大衆組織は活動力の源泉を否定されてしまうのである。
 そういう意味でいえば、会員大衆の意識変革などということばも、誤解をうみやすい表現である。すでにめざめたリーダーがいて、無知な大衆にわからせようとする啓蒙的な姿勢ととられかねない。意識の変革というのは、つねに自己変革でなければならない。自己の欲求と、それを阻む障壁とのあいだの矛盾を認識し、要求を実現しようとする苦闘の中で人間は自己を変えるのである。要求の自覚や、障壁の構造、問題解決の方法などについて、他から示唆されることは有益だろうが、認識と実践の主体はあくまでその人自身である。そして役員、いやすべての活動家の任務は、右のような自己変革のための契機の提供である。
 こういう方向でのリーダーのありかたについて、かつて労働運動や青年運動、婦人運動などの大衆運動で、「大衆路線」ということばが使われた。もともとは中国からきたことばだったと思うが、すべての運動は大衆の要求に根拠を置いておこなわれなければならないし、リーダーの役わりは、大衆の要求に奉仕することだ、というのである。これはけっして大衆追随をよしとするのではなく、大衆の中に存在する変革への意志と力量を信じる、もっともラディカルな民主主義的姿勢なのである。
 現実のPTA会員大衆の意識水準は、必ずしも高いものではないかもしれない。そういう現実をなげき、かれらを自覚させようとして、PTAのあるべきすがたなどを説いて聞かせれば、相手の蒙を啓けるだろうと考えるのは誤りである。「理想はそうかもしれないが、しかし……」という反応しかでないだろう。啓蒙のかたちで提示された正論は、多くのばあいタテマエとして無力化されてしまうものである。
 啓蒙ではなく、会員大衆における要求の自覚と組織化こそが必要なのである。それでは、現在のところ、会員大衆の要求はどの方向に向けられているのか。民主的な役員を選出するような、すすんだPTAのばあいでも、多くの会員の第一の関心はPTA にではなく、わが子の成長と発達にあるだろう。もともとPTAはそれじたいが最終的な目標ではなく、子どもの教育権を保障するための運動体である。だから子どもの生活と学習をめぐる諸条件について、親たちの不満と願いを明らかにし、解決の方向を見いだすための学習の場をつくりだしていくのが、リーダーシップの役わりなのである。
 PTA改革にとりくんできたひとが役員になったばあい、しばしばPTA運営上の手つづきや規約改正の問題にばかり目が向きやすく、子どものこと、教育の問題に悩む会員大衆の要求とずれてしまうことがある。PTAのプロめいた意識や指導者意識にとらわれることなく、教育にかかわる人間的要求への感受性を鋭くすることこそ、役員に必要な修養である。

PTAの規約と民主的運営

PTAと規約

 どんなPTAでも、会則がないなどということはないにちがいない。PTAあるところ会則あり、である。しかし、PTAの会員で規約をせめて通覧したひとの数はごく少ないであろう。役員とか委員とか、なにがしかの肩書きを持った会員でも、会則などろくに見もしないといった例はべつに珍しくない。そもそもPTAにあまり関心を持たないPTA会員のほうが多数であろうから、そのPTAの会則など見向きするはずがないのだ。会則の文章が堅苦しく、法律の条文のように無味乾燥なのがよくないのだ、という説もある。たしかに、会則の文体は、概してとっつきにくく、無愛想である。しかし、漢字をなるべく減らして、「である」調を「であります」調に変えてみたところで、会員が会則を愛読するようになるとは、とても期待できない。もともと日本人は、共通の目的を確認し、その目的を実現するために組織をつくり、合意したルールにもとづいて行動するという、結社の行為に習熟せず、自発的・主体的に契約をとり結ぶという慣行に欠けるのだという説がある。「権利と義務」の観念が欠如、もしくはいちじるしく希薄なのだという国民性論にも、うなずける点がある。
 なにしろ、国民生活の大本を決めているはずの憲法に対しても、ほとんど関心を持たず、それをめぐる改正と擁護の論争に無頓着な国民が少なくないのである。国民の基本的人権にかかわる憲法についてさえ、かくのごとくであるからには、PTAの規約が無視されることなど、ちっとも不思議ではない。憲法に対して冷淡な国民が存在するのは、憲法が無意味・無価値な内容しか持っていないからではない。憲法によってなにがまもられているかを知らず、ひとたび基本的人権がまもられなくなったあかつきには、国民の生活がどうなるかに思い及ばぬ愚かさが、冷淡さの原因である。
 しかし、PTAの会則のばあいには事情が異なる。PTA会則への冷淡さは、PTAへの無関心を原因とする、その結果にほかならない。それならば、なぜ多くの会員はPTAに対して無関心なのか。その理由はいたって簡単で、PTAが会員の要求にこたえるような活動をせず、実績をちっともあげていないので、会員がPTAにあまり期待しなくなっているのである。
 そこで、次の問いは、PTAが会員の期待にこたえられない、あるいは会員から期待されなくなっているのはなぜか、ということになる。それは、いうまでもないが、会員の要求にこたえるような活動をする人間、いわゆるPTA活動家が不在だから、あるいは活動を許されないでいるからである。PTA活動が不振だというのは、要するに有能な活動家に欠けるからであって、PTAのもっとも中心的な問題は、PTAの目的を明確に自覚し、目的の実現のために奮闘する活動家をいかに確保するか、いかにして育成するかということである。PTAのありかたを決定するのが人間の問題であるからには、規約の問題というのは二次的な事柄である。一般的にいって、規約が人間を支配すべきではない。人間が主体であって、人間が規約を利用するのである。憲法は国民の基本的人権を擁護するからこそ尊重されるべきなのであって、憲法には手段的価値しかないのに、憲法それ自体を「不磨の大典」ふうに物神化する傾向も一部にある。PTAの規約などは、会員の権利を保障する限りにおいて存在意義があるのにすぎない。規約はもちろん遵守されねばならないが、それは、PTAを民主的に運営するためのよりどころとして機能するばあいにおいてのみ有益なのである。
 ほんらい方便にすぎない規約が、まるで自己目的化して、会員の自由な活動を阻害するばあいも少なくない。それには二つの原因が考えられる。
 一つは、会則の内容が非民主的につくられていて、会員の権利をまもっていないときである。例をあげると、「活動方針」で、「PTA(あるいは父母)は学校の教育方針に対して干渉しない」などと規定している会則が少なくない。「干渉」の解釈がおそろしく拡張されて、学校の教育全般について、父母が発言できないかのような雰囲気のPTAも珍しくない。もちろんPTAは学校教育のありかたについて発言してもかまわない。いや、発言するのが当然である。このばあい、「教育方針」などという包括的なことばではなく、「学校の管理および教職員の人事には干渉しない」と、アンタッチャブルな聖域を限定している規約がある。
 このほうがややましであるかのごとくであるが、「管理」という概念もはなはだあいまいで、しばしば「経営・管理」などと並列的に用いられ、学校運営の総体をさすことばとして通用してしまう。また、人事のことはたしかに複雑で微妙な問題を含んでいるが、担任の教師が毎年交代してしまうようなばあい、二年問の「持ちあがり」を希望する声が出ても当然だろう。機械的に、いっさい発言まかりならぬなどという規約のもとでは、父母は自らの教育要求を率直に表明できなくなる。そうなればPTAは死んだも同然である。
 規約がかえって邪魔になるもう―つの原因は、さまつなことをくどく規定した会則で、しかも、むやみにこだわる一言居士ふうの会員が、その会則をひねくりまわして、会の活動を妨げるばあいである。執行部のケアレス・ミステークをとりあげて、規約違反などと問責し、しつこく非難する、自己顕示欲のつよい会員がときにあらわれる。しかし、実のところ、この種のタイプの会員はあまり多くなく、むしろ気をつけなければならないのは、執行部のほうで、規約を楯にとって、規約に無知な一般会員をけむに巻き、強引に会を運営することであろう。それでも、とにかく規約が折にふれて引用されるPTAは、比較的ましなほうだといってよいであろう。かなりPTAの経験をつんだ役職者でも、平気で会則を無視し、恣意的な行動をするばあいがままある。もっとも望ましいのは、規約の文言にこだわるのでなく、規約の精神を理解し、条文の趣旨を尊重することである。そして、会員の権利、会員の利益をまもるように、PTAを運営することである。中には、りっばな規約を持ち、それをまもりながらも、意味のある活動をちっともしないPTAだって存在する。くりかえしいうが、規約は行動のための手つづきであり、形式的わく組みにすぎないのであって、問題は、どういう内実をそれにもりこむかなのである。

会則構成上の諸問題

 会則を構成する諸要素の中で、もっとも重要なのは、目的に関する規定である。PTAは子どもの成長・発達の権利、とくにその中心をなす学習の権利をまもるために、親と教師が学習し、実践する、大衆的な教育運動の組織である。会則の目的条項は、そのことを簡潔に規定すべきで、会員の親睦だの、環境の整備など、活動の具体的分野に関する事柄をいちいち詳細に規定するのは考えものである。そこに列挙したこと以外はやるべきでないとか、やってはならないなどと、一言居士が出しゃばる根拠ぐらいにしかなるまい。
 活動の方針としては、自主性の標榜と民主的運営の尊重が明記されるべきである。営利性・党派性・宗派性の三つは、当然否定されるべきであり、「本会または本会役員の名において公私の選挙の候補者を推鷹しない」という条文は、日本の政治的風土の中にあっては、必要な条項であろう。
 なお、自主的な運営ということが、しばしば孤立主義的に解釈されやすく、他の教育団体と共通目的で行動することを阻むばあいがある。「必要があれば他の文化・教育等の団体と積極的に協力する」という条項が望ましいゆえんである。
 民主的運営を抽象的・一般的にうたうだけではだめで、役員選出、会議の持ちかたなど具体的な条項で、その精神が具体的に適用されていなければならない。
 「会員はすべて平等の権利を有し、義務を負う」などと麗々しく掲げておながら、P会員とT会員では会費の額がちがっていたり、慶弔費にPとTで格差がつけられているような会則もある。もしPとTとがまったく平等な権利・義務を持つ一会員として遇されるというのであれば、校長がどの会議にも自由に出席できるとか、教頭を副会長にするとかいった条項は、原則に背反しているといわねばならない。同様に、会長はPからとか、書記三名のうち一名はTからなどといった規定も、理想論からいえば好ましくない。親とか教師とかいった、身分や立場を超えて、それぞれが一人の年長世代として子どもたちの問題にとりくむ、という姿勢でなければ、子どもの権利が社会的にまもられることにはなりにくい。どだい、PTA(PとTの団体)という名称自身が、異質なものの連合体というイメージをつくってしまう。
 役員選出については、指名委員会で選任する規約が多く、全会員による直接選挙制をとっているところはまだあまり多くない。ごく少数の指名委員が密室で話しあって決めるかたちでは、どうしても地域ポスが役員におさまる確率が高い。選挙制のほうが民主的な感じを与えるが、実さいには多くの困難がつきまとう。立候補者が少ないか、全然いないか、なり手がないというばあいもあり、公約も経歴も公表されずに投票がおこなわれるので、こんなでたらめな選挙はない。つまり、平素活動的なPTAなら、会員相互に知りあう可能性もあり、民主的なリーダーを選ぶのに必要な情報を与えられるが、おおかたのPTAの役員選挙では、雲をつかむような頼りなさに悩まされる。まあ、こういった弱点はあっても、選挙制のほうがやはり指名委員会方式よりもまさっているといえよう。やむなく指名委員会方式をとるなら、そのばあいも立候補の余地を残しておくこと、指名委員の数は少なくとも各学級から一名以上選出しておくこと、役員の決定には話しあいだけでなく必ず投票を用いること、をすすめたい。
 全会員であれ、指名委員会内部だけであれ、役員を選出するさいに、各ボストごとに選出していくばあいと、役員の総数だけまず選んでポストの割り振りは役員間で互選するばあいとがある。公約も立候補宣言もない選挙では、選挙の結果うまく適材適所にならないことも多いので、後者の互選方式のほうが無難であろう。一部には会長が他の役員や専門部(常置委員会)の長を指名する、いわば内閣の閣僚決定方式と同じやりかたをとっている会則もあるが、これでは会長一派のお手もり人事といわれてもしかたあるまい。
 役員と専門部の長とで実行委員会(運営委員会)を構成し、これを執行機関とするなら、審議機関として代議員会(評議員会)を設け、これを総会に次ぐ会の意志決定機関とすることが望ましい。理想論的にいえば、代議員には、なにも肩書きのない会員がなるべきであるが、実さいには、役員・長を除く全委員総会をこれにあてるしかないであろう。
 ほかには、原則として会議を公開とし、一般会員の傍聴を自由にすること、予算作成過程で専門部の主体性と一般会員の参加を保障すること、各種会合の成立条件や議事手つづきをなるべく明確にしておくこと、また学級・地域の集会の開催を保障するような明文を用意すること、などが規約づくりに際しての留意点になろう。

全員加入制の是非

 PTAの組織のありかたについて、より根本的な検討をおこなうさいの争点の一つに、PTAを全員加入制(いわゆる網羅制)にするか、有志加入制にするかという問題がある。アメリカのPTAのばあいは、後者の方式である。その歴史はきわめて古いが、その歴史の長さに比して、会員の数、つまり組織率は必ずしも高くないといわれている。少数精鋭主義ということになろうか。この点、子どもが入学すればほとんど自動的ないし強制的にPTAに加入させられる日本のPTAの組織原則に対して、次のような立場からの不満が出されるのは当然といえよう。
 そのPTAの体質が古く、非民主的な運営がなされているばあい、たとえば学校への財政援助団体にすぎなかったり、会員の少数意見を無視・圧殺したり、役員が独善的にふるまったりするばい、心ある会員の中には、もうこれ以上この会の中にとどまることを無意味と考える者も当然出てくるであろう。もちろん、この会員の脱退は認められる。もしその人が共同体的規制の心理的圧迫に抗するだけの性格的な強さを持っているならば。事実は、現在のPTAに対してつよい不満を持っている会員でも、あえて脱会の挙に出る勇気を持ちあわせないのがふつうである。そこで、入脱会の自由を規約に明記し、PTAが自発的結社(voluntary association)であることをはっきりさせようというのが、有志加入制論の立場である。
 いっぽう、活動家の立場から、PTAの網羅制を改めて、有志加入制に持っていこうとする主張が、ときにおこなわれる。PTAは大衆団体の中でももっとも大衆的な集団であり、会員の思想信条・階層・教育的背景には大きな差異がある。目ざめた活動家の側からすれば、遅れた無知な会員が、単に不活発なだけでなく、進んだ活動家の足を引っぱり、邪魔をすることに腹が立つ。わからず屋の会員などむしろいないほうがすっきりするから、志のある、やる気の会員だけで活動をすすめたら、どんなにいい活動ができるだろうという気持ちにもなろうというものである。PTAの近代化をめざす純理派には、PTAを有志加入制にげべきだと主張する人がしばしばいる。しかし、皮肉なことに、実際に有志加入制に持っていくような動きをする人の意図には、PTAを弱体化し、無力化しようとする邪悪なねらいが隠されているばあいがある。
 有志加入制にして、八〇パーセントの会員を確保したところで、とにかくすべての親の意志が反映されていないということで、PTAの立場はたいへん弱いものになる。親のがわと教師のがわの意見が対立しているときには、親のがわがいちじるしく不利になる。教師の一部が脱退でもすると、文書の配布など会員への連絡にも支障をきたし、会の活動は大きく阻害されてしまう。
 PTAにおける組織原則を考えるには、PTAほんらいの目的をはっきりさせておかなければならない。PTAには、親たちの教育要求を掘り起こし、統一して、教師たちの見解との調整をはかり、教育実践の質を高めたり、学校教育の環境を改善していくという重要な任務がある。この局面では、教師と親とはそれぞれちがった角度から子どもに接しているのであるから、会員として、人間として対等平等であっても、それぞれの義務は十分に果たさなければならない。
 教師に即していえば、親たちの教育要求に耳を傾け、自己の教育上の信念や実践を率直に語り、親たちに批判してもらい、その合意と支持をとりつけつつ、創造的な教育実践にとりくむべきである。全員加入制のPTAでこそ、教師はすべての親の教育要求が集団的に統一されていくことを期待できる。教師にとって、PTA活動は雑務などではなく、本務に準ずるものなどでもない。教師の教有実践を支える根幹が親たちの教育要求である以上、親の教育要求に直面するPTAは、教育実践を展開していく上で不可欠な存在である。

会員の教育要求の結集

 PTAの任務は、なにも学校教育の充実強化ばかりではない。地域環境の浄化も必要だろうし、国家や自治体の教育行政のありかたに注文をつけてもよいだろう。しかし、従来のPTAでは、ややもすると一部役員が動くだけで、一般の会員にはあまり出番がないという例が多かった。役員がしごとを請け負い、自分がいかに会員のために多忙であるかをグチってみせ、多少でも成果をあげれば大いにほめてもらおうという態度であった。
 一般会員が集まる機会としては、学級か地域の集会しかないわけであるから、この機会を充実させ、PTAに対する会員の期待にこたえなければならない。とりわけ学級集会こそは小学校PTAでは最重要の機能である。それなのに実態では、学級集会や学年集会があまり開催されず、教師の教育実践について親たちが率直に意見を述べることは、むしろタプーにされてしまっている。ふつうの親の関心が、学級におけるわが子の生活と学習にあることは明らかなのに、教師の指導をめぐって自由に意見交換ができないようなPTAには、存在意義がないといえよう。PTAに対する一般会員の無関心は、まさにこうした事態の反映である。
 それゆえに、欠陥を克服するためのPTA改革が急務になるのだが、そのさい、改革は、まず規約の改正から着手するのではない。会員の要求の中でもっとも重要なもの、もっとも実現しやすいものを選んで、解決に努めることから改革は始まる。この努力の過程で、要求の実現を目ざす者のあいだに連帯が芽ばえ、自信が回復し、改革の主体としての力量が高まっていく。改革者たちの集団の量と質が、ある水準に達し、PTA運営の中心になっていったとき、はじめて規約の改正が日程にのぼってくる。つまり、規約の改正などは、PTA改革の運動がすすみ、それが成果をあげたのちに、成果を定着させるためにおこなわれるべきものである。
 PTA活動家の中には、PTAの中で少し発言権が得られるようになると、すぐ規約の不備を告発しはじめ、民主的な規約づくりなるものに突っ走ろうとするひとが少なくない。せっかく結集しはじめた活動家のエネルギーを、規約改正のような観念的な作業の中で消耗させてしまうのである。規約改正のような問題では、改正委員会がいくら公聴会を開いたり、アンケートをしたり、ニュースを配ったところで、会員の多くの関心を集中させるようなことはできるはずがない。
 けっきょく、改正のしごとにあたった当事者のあいだではある程度の理解が深まってしも、一般会員の心裏にひそむ教育要求・生活要求を掘り出し、燃えあがらせることはできないだろう。せっかちに規約いじりをするひまがあったら、子どもの生活と教育の諸問題をとらえて、学習・討議の機会を設定し、真剣な探求へと誘うべきである。会員大衆の目下の要求がレクリニーションであり、肩のこらない雑談であるなら、活動家はその要求に合わせてプログラムをつくり、会員の要求がさらに高次なものに発展するような契機を提供すべきである。
 規約はむろん重要である。しかし、民主的な規約さえつくれば、PTAが民主的に運営されるだろうなどという幻想にとらわれるのは愚かであり、そのような発想はPTA活動の民主的な発展を阻むものである。いまの日本の学校の中には、子ども・親たちの人間的要求を阻む障壁が数多くあり、矛盾をのりこえて前進しようとする意欲こそが、PTA改革の原動力である。ことばや形式にこだわることなく、人間的欲求の解放と発展に全力を傾けることが必要なのである。

宮坂広作『転形期の社会教育』1978 協同出版 pp.223-42

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