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『鈴木いづみコレクションⅠ ハートに火をつけて!誰が消す』考①

まだ読み途中の本もあるのに、新しいものを読みたくなる、というのはきっと私だけの性癖ではないように思います。今日から気が向いたら、鈴木いづみコレクションを読んでいこうとおもいます。

本作は、鈴木いづみの長編小説。死後、著作集にまとめられ、第1巻に編まれています。初版は三一書房で1983年5月。鈴木さんが36歳で亡くなる3年前のことで、23歳から29歳(1972-78)までの彼女の人生がベースになった私小説です。

鈴木さんの文章、とくにこの小説に顕著なのは、音・声に非常に拘って文章表現が練られているということだと思います。冒頭から主人公いづみは、友人の悦子と待ち合わせ、本当によく喋ります。二人のダイアローグに挟まれる形で、いづみは内面吐露が挟まれながら二人の人物描写が行われていくわけですが、このダイアローグのリズムが極めて良い。時代語とでも言うのでしょうか、当時を彷彿とさせる言葉も散りばめられます。また例えば次の文章。

外は、夜も深くなっていた。とぎれとぎれのネオンが、ひっそりとにじんでいる。闇が濃い。このおなじ夜が、とわたしは感じた。同時に、いくつもかさなりあっている。千もの夜が、おなじ場所、おなじ時間に、くっきりとある。それぞれが切りはなされて。たがいにまったく無関係に。だが、それと知らずに、ひびきあってもいるのだ。この、ひとつの、固有の夜が。

そしてこの文章は次の連(もはや連!!)は次のように流れます。

「時間」に、エコー・チェンバーをかけたみたいだ、と思った。(ハプニングス・フォーのカヴァー・ヴァージョンに「アリゲーター・ブガルー」という曲がある。それにつかわれているエフェクターが、エコー・チェンバーだ。「ブガル・ル・ル・ル・・・・」と震えつつ尾をひく。音がちょっとずつもどる)。この時間のこの夜の残響が、この区切られたなかで、はてしなくつづく。ほかの時間には、まったく影響はないのだけれど。哀愁をおびたル・ル・ル・ルというひびきが、水圧となって、肌にきこえる

抽象的な夜の捉え方をまず書き、その夜のイメージ構築を独特のエフェクターの残響に比喩したところは、しびれるくらいに上手だし、かっこいい。二つの文章ぼ塊にあるギャップにやられてしまう。ちなみにザハプニングスのアリゲーターブガルーは1968のリリースで、これ曲自体がもうめちゃ雰囲気のあるカッコ良さです。

悦子との会話にいづみはどこか疲れていて、交わされる会話も少しずつずれていく。疲弊を背負いながら、一人夜の街に出て、描写されたのが上の文章。

隔絶、孤独、区切られた、固有の夜。ここだけみると、心底冷えて枯れていくような寂膜さすら感じますが、彼女は「だが、それと知らずに、ひびきあってもいるのだ。この、ひとつの、固有の夜が。」ともいうのです。孤独でいながら、でもどこか暖かな情愛の世界を信じた、彼女らしい一文で、第1章「ジス・バッド・ガール」の中でひときわ光っている部分だと思います。



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