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入澤美時『考えるひとびと』より ー大西廣・全てのイメージは等価

美術史家の大西廣の仕事は徹底しています。一つの問題をとことんまで追い詰め、深堀りし、いつしか極めて大きな構想と世界観を見せてくれるのです。そのため、連載などの場合では、ひとつのキーワードをめぐっていきつもどりつしながら考えるスタイルが見受けられます。前回号の結論が、新たな問題を呼びだし、それらが渾然一体となって新たな思考が重ねられるのです。考え続ける人、というのが私の大西廣のイメージです。

大西の美術をめぐる主張で特徴的なのは、”絵の居場所”という言葉に象徴されるように、本来その絵はどこにあり、人々の生活の中でいかなる機能を果たしたのか、ということに徹底的にこだわったことです。絵画機能論とでもいえるのかもしれません。

我々が古い絵を見るとき、ギャラリーやミュージアムで見ることが多くなります。しかし当然、その鑑賞スタイルは、近代以降に徐々に定着していったもので、とても不自然なものです。本来は城郭や寺社の部屋を飾ったり、神仏に供えられる聖なる物語であったり、個人で大事に秘匿されたものであったりしました。それぞれの場所で、時には観る観られるの関係を超えて社会的な役割を発揮していたのです。大西は、絵画があったかつての場所で、どんな人々がその絵画をめぐってコミュニケーションをしていたのかを復元的に考えようとしたのです。

個々の人間が何かを美しいと思うか、思わないかという、いわゆる美意識というか、美的鑑賞能力みたいな問題として考えてみる。(略)美意識とか、鑑賞能力というもの自体が、ヨーロッパ中心的な近代主義の、たいへん偏向した、抑圧的な文化制度に支えられて成立しているのだということを知らなければいけない。僕の考えでは、仮に人が何かに触れて美しいと感じるとしても、それはもっと大きな心の動きの一部にすぎないのではないか。早い話が、絵というものが、ヨーロッパ近代において、社会的な公共機能を失った19世紀に、絵は美術館という神殿に祭られることになり、同時に美学という学問が出来上がってきます。それは人の心の奥の大きな動きの一部だけを肥大化して、「美」と名づけてしまったようなところがある。P154

本文でこう述べた大西は、その後に「文明化の過程のなかで、いわば大文字の「美術」という言葉で人が表すようになった現象自体が、ある意味でエリート文化の抑圧的な制度の一部にすぎないのではないか。人びとが美しいと思おうが思うまいが、あらゆるイメージ現象と交渉を結ぶなかで、我々は生命活動をおこなっている」と述べます。

有名画家の作品であれ、アニメやマンガであれ、落書であれ、それらはひとしくイメージとして我々は受け取り、生活を行なっているのです。美しいものであれ、醜いものであれ、それはつまり、イメージとしては等価なのです。

美しく気高いハイカルチャーとして受容されてきた文脈から絵画を取り出して、その生き生きとした社会的な役割に光をあてたのが大西の仕事といえるでしょう。この考え方、私はとても好きなんです。価値のないとされてきたものに手を差し伸べて、救ってくれているような、そんな気持ちになります。

冒頭にも述べました。大西さんは考え続ける人です。大西さんの思考は、いきつもどりつしながら展開し、いつしか大きな連関の系をなし環的な様相を呈します。きっといつか、大西さんの壮大な思索が生命とともに再びココに戻り、もう一度私は会えるような気がしています。またコーヒーを飲みながら、日当たりのよい場所で、あれこれと議論したいです。

少し上を向いて、眼光鋭く射通すように見つめ、議論をする姿。最高にかっこよかったです。本当にありがとうございました。


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