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入澤美時『考えるひとびと』より ー伊沢紘生・”競争の裏側の論理”

白山をフィールドに、ニホンザルの調査・研究を行った伊沢紘生のインタビュー。

サルは社会的な動物であり、グループを作って生活し、そのグループにはボスがいて、そのボスを補佐する役割のサルがいて、そんな有力なサルの周りには、たくさんのメスザルがいてハーレムを作って、のようなイメージがありました。人間ととても類似した組織を構築するのがサルであり、むしろそれはサルの知能の高さを示す一つの指標でもある、という漠然とした思い込みがありました。

しかし伊沢さんは、これとは全く異なるサルの社会を白山のニホンザルの観察の中から見出しました。すなわち、「ニホンザルにボスザルはいな」く、「群れ生活のかなめは、気にし合う関係と頼る頼られる関係」であると。

人間が餌付けをして、限られた餌を皆で取り合う状況であれば、力の強いものが出現し、餌の分配や軋轢の緩和のために序列が生まれ、ヒエラルキーが出来上がる。しかし、なんとか各々がそれぞれの餌の確保ができるような、ある意味公平な世界であれば、サルたちはそれぞれのペースで心地よく暮らしている、というのです。

さらに伊沢さんはここから敷衍させ、競争の原理とその裏側にある原理について次のように説明します。

競争っていうのは、条件を限りなく一つに限っていく、時間軸をできるだけ短くしていく、循環の輪を縮めていく、価値をどんどん絞り込んでいく、ということで成り立つ論理なんです。スポーツがそうでしょう。土俵の大きさを決めなかったら、相撲はできない。マラソンだって、42.195キロメートルという基準をつくるから競技が成り立つ。P106

これが競争の原理。一つの枠組みや、一つの価値観を共有して、そのルールの中で行うのが競争ということです。たった一つのものを奪い合うといってもいいかもれしません。

では競争の裏側の原理とは何か。伊沢さんはこれを縄文人と弥生人の例で説明します。

僕は、縄文人は明らかアワやヒエやクリを植えていた、イネも間違いなく植えていたと思ってはいます。大陸とあれだけ交流があったんですから。しかし、イネ農耕民の弥生人と(縄文人が)何が違うかといえば、かれらは競争の裏側の論理で生きていたということなんです。すなわち、ヒエはヒエとして価値を認めていた。コメはコメとしてのオリジナルな価値があった。それは甲乙じゃあない。だから物々交換も成り立つ。(中略)弥生時代に、すべての価値の基準がコメになっていった。すなわち、コメが唯一絶対の価値基準になった途端に、あとのものはすべて雑穀です。田畑や野原のイネ意外の植物は全部雑草です。そこで初めて、コメをどのくらい所有しているかという基準で、いわゆるピラミッド型の農耕社会が成立する。P108

一つの枠組み、一つの価値が競争の論理であり、広い範囲で、ありとあらゆる価値基準が並存している状態が競争の裏側の論理ということになるでしょう。

生物の世界は多様であり、あらゆるものがた共生・共存している状態が理想的であると考えられていますが、その多様な社会というのは、あらゆる種がまじわりあいながら、それぞれが棲み分け、競争が避けられている状態だと考えられています。

もちろん、競争社会と非競争社会という言葉が用いられていないことからも明らかなように、”競争の論理”と”競争の裏側の論理”は密接不可分に接続している状態なのでしょうが、やはり、個人的には、競争の裏側の世界で生きていきたいと思ってしまします。

私からしたら人間よりもニホンザルのほうが優れているように思えてなりません。



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