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それぞれの喜び~子どもたちとの時間で気づいたことVol18

4月。
私の住む北海道、日本の東の隅にも、春を感じる気配がやってきました。
雪が解け、一日一日、気温が少しずつ上がってくると
木の枝に緑が芽吹き始めます。
空気もどことなく瑞々しく、心も洗われるような気持ちになります。

なにより、ただそのままに在る自然が
 ”生命力” そのものであることを感じ
自分にも周囲にも、全てに、命を寿くこの季節がとても好きです。

この記事を読んでくださっている皆さんは、
いまどんな春の景色を目にしていらっしゃるでしょうか?


何かと変化が激しく、気ぜわしいこの季節。
自分自身だけでなく、
居場所や、仕事や、取り巻く人、家族や友人、職場など、
たくさんの物事・人が動く季節ですよね。

私自身も、家族の一人(長男:15歳)が進学をきっかけに家を離れました。
まだまだ離れた場所から、親としてのサポート比率は大きいですが
息子なりに、少しずつ少しずつ
自分で考え、判断し、選択し、行動することを重ねています。

なぜか
もっともっと息子が小さかった頃…
自分で寝返りを打つようになったり、ハイハイをするようになったり
ついには歩くようになった、あの頃のことを思い出します。


身体はすっかりあの頃よりも大きくなりましたが
ここから先もまた、こちらがサポートしているようで
新しい体験を積み重ねる息子から
「自分で生きようとする力」を感じさせられるのかもしれません。


子どものなかに備わっている力


「人間の中には、自分で生きようとする力が備わっている。。」


子育てしていると、または関わる子供の姿から
少なからずそう感じる場面に出逢ったことがある方は
いるのではないかなぁと思うのですが、いかがですか?



私の場合、子どもが何かひとつ、新しいことができるようになる度に、
その思いがどんどん上書きされていきました。

”できない存在だから子どもに何かを施す” のではなく

私たち大人は、子どもにもともと備わっているものが引き出されるのを
少し手伝うだけなの存在なのかもしれない。

そう思った時、ものすごく体も気持ちも軽くなったことを思い出します。
いま、子どもたちと関わっていて、
更にその感覚が明確になってきています。


何か正しいことに導いていくのが大人、親であるのではなく
できるようになるまで、手伝う。

学習も習い事も、正しさに導くとか、あるべき姿に近づく
(いえ、近づけさせる と敢えて書きます)ためのものではないはず。

けれど、周りを見渡すと
こういったことは、一定方向に運ぶための商品になっているように
感じることがあります。
(塾、芸術系の習い事、本当はやりたくないスポーツ)
または、親の迷いや不安を煽って、親の安心を満たすための商品になっていたり。。。


少しずつ子供の居場所が拡がりつつある、昨今
フラットな状態で見渡していきたい 
親の安心感のために飛びついていないか という視点も
もっていたいと思います。

私が
”子どもにもともと備わっているものが引き出されるのを
少し手伝うだけなの存在なのかもしれない” と
思うようになったきっかけについて、また別の記事で書こうと思います。

今回は
以前息子とのやり取りで、はっとさせられた出来事を思い出したので
書いてみようと思います。



喜びも学びも、それぞれのもの


息子は小学、中学とサッカークラブに所属していたのですが
高校生活では、サッカーから離れる選択をするようです。

そんな話をしていて、思い出したことを書いてみようと思います。

息子はサッカーを7年間続けていましたが、
私から見て、決して技術的に高い!とか
すごく上達したとは言えませんでした。(ごめんね)

身体は細身、走りがものすごく早いわけでもなく、
試合で相手チームの選手と絡むと、身体が飛ばされる、ボールが流れる。

試合の送迎や応援に行って、見ていると、正直胸が痛くなりました。


途中からは、メンバーの上達と自分の差を感じてもいたと思います。
年齢が上がるにつれ、求められるレベルも高くなり、
コーチからの掛け声も、厳しい内容になっていきました。
学校生活ではサッカー以外の多くの活動もあり、練習でクタクタになり、
更にテスト勉強などの期間は、うたた寝してしまうことも。。。

とうとうある時、サッカーの話をしていて
「あのね、サッカーをやめたいって思うこと、ない?」
と聞いてしまったことがありました。(これも ごめん です)
もしかしてやめたいのに、やめるって言えない気持ちなんじゃないだろうか
とも思ったりしていました。


すると思いがけない答えが返ってきました。

息子「ないよ」
私 「ないのか。。そうなのか。」
息子「身体とか時間とか、キツイなと思うことはあるけどね。」
私 「うん、キツイだろうなと思うことある。」
息子「自分のパスしたボールで、誰かがシュートして得点になったり、
   点数にならなくても、いいパスできた時、嬉しいんだよね」
私 「そういうことか。。」
  「大変だろうなと思って聞いちゃった」


もうおわかりだと思いますが、私は心の中で ハッとさせられました。
それは自分が
”できる・できない” という視点で測っていたことに気づいたこと。
そして、目には見えないけれど、息子には息子の大切にしていること、
喜びがあること に気づいたこと。

シュートが決まる、得点を獲得できる、のように
何かわかりやすくカタチや結果を得ることが、
”いいこと” で、それが ”子どもの成長” 
のように潜在的に思っていたのだと思います。
もちろんそういった結果も未来の夢やモチベーションへとつながる。


でも

何が原動力になっているか
何が歓びになっているか
どんなことを大切に感じているか

そういったものは、外側からは見えません。


それこそが、それぞれの、
”ひとりひとりの” 『個性』 なのでしょう。

だからこそ、それぞれの重なりによって
チームスポーツのように
思いもしない新しい展開に発展していったり
思いもしないことに気付き、考えが変わったり

より自由度の高い、視座の高さが育まれていくのかもしれない。


私は息子とのこのやり取りがあってから
試合そのものがとても面白く感じるようになりました。
チームメンバー、相手チームのメンバーの見え方も
ガラリと変わってしまいました。


正しさではなく・・・


ひとりひとりが自分のなかにもっているものを
尊重する

そういった姿勢は、
安心して自分を表現できることにもつながります。

どれだけそのことが
周りの大人、環境に保障されているか。


新しい季節と共に、取り巻く環境や人が変わる時期は特に
大切にしたいことだなと思います。



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