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【連載】永遠のハルマヘラ ~生きて還ってくれてありがとう~ 第六章    軍歴証明が語ること・・・


父さん
福井県庁で兵歴簿・軍歴証明をあげてきたよ。やっと。

 福井県庁に弟と一緒に行って、兵籍簿の写しをもらってきました。
昨年の11月末に、その前の年の豪雪で亡くなった叔母さんの三回忌の法事で勝山に行く前によりました。
 担当者の方は丁寧に心を尽くし、読みづらいであろうと拡大コピーまでしておいてくださいました。電話でお願いした以上の心配りに感動しました。地域福祉課の女性職員さんの素晴らしい対応には感謝しかありませんでした。
「お父さまの兵歴簿・軍歴証明には記載事項が多くあります。このように多くの記載があることは稀です。」
 行間をびっしりと埋めて書かれた多くの筆跡の文字がそこにはありました。
拡大コピーしないと読み取ることは不可能でした。
「戦死なさった方のはぁ、とっても少ないんですぅ。1行、2行で終わることもあるんですぅ。」
 声を落として話す女性職員さんの福井訛りが耳に残りました。
あまりにも重くて辛い、その行の記述は容易に推察できました。
 このように、軍歴証明・兵歴簿をあげに来る人は今では本当に少なくなったとのことで、担当課の皆さんが多くの思いを一斉にコチラに向けてくださっている。記憶の遺産を、記録の遺産を風化させてはいけないと改めて確信した一件でもありました。

 そして、その夜はびっしりと書かれて読みづらい兵歴簿を判読しながら、弟と年表を簡単に作ってみました。それは知識のない私たちには至難の作業でした。
 まず、とんでもなく難解なのが漢字の旧満州の地名です。
哈爾浜、孫呉、斉斉哈爾、富○爾基、桂木斯・・・
母の里、叔母の家で出先であることもあり、携帯のネット検索で調べられるだけ調べながら解き進めました。
 弟は、定年退職してすぐに、ビジネススクールで一緒に学んだ中国人の若い友人に現地を案内してもらえることになってハルビンまで行って、父の足跡を辿る旅をしています。さすがに、行って来ただけあって、その時の記憶が役に立つ。一定の精度をあげながら読み進めていきましたが、次々と謎ばかりで・・・。この先、たくさんの事実と真実にどれだけ出会うことができるのだろうかと不安や期待が入り混じりました。そして驚くべき事実も浮かび上がろうとしていました。
 少しづつひも解いていくよりありません。
年表を作るところまで進めて、叔母の法事の前夜を縁者が集まって酒を酌み交わして叔母を、父を偲びました。
 朝晩の熊目撃情報に震えて、氷点下の寒さに震えながら、風邪っぴきというお土産付きで帰ってきました。

 そして、兵歴簿を手にしてからも時間は容赦なく過ぎ去っていきます。
何故、もっと早く、これらの事実に出会おうとしなかったのか?兵歴簿をあげるのは郵送だって受け付けているのは分かっていたのですから。
自分史活用アドバーザーとして知識もある。人に問われたら「ぜひ、軍歴証明をあげてみてください」そう答えていたにもかかわらず、やらなかったのです。それは事実に隠された真実を知ることに抵抗があったのでしょうか?それも謎です。
そのことも、隠された謎を解いていくうちに明らかになっていくことでしょう。

 軍歴簿から拾った年表は年月日まではっきりとしている。その横に、わかる限り、その周辺の時間と場所の歴史的な出来事をパズルのようにはめていこうとすると、ハタと止まってしまうことが度々出てきました。
 例えば、昭和20年8月14日終戦という記述は、おそらくは日付変更線をまたいでのことであろうなどと推測できることもあるが、ある程度の幅で日月の時間のずれはあるとしてもいくつもの疑問がそこかしこに残るのです。

 そうするうちに、さらに、昭和19年6月、渾第二号作戦参加、渾第三号作戦参加、歩兵第二南十字隊本部附とはなんだろう。

 父は言っていました、大きな作戦で船団に乗る予定だったが、マラリアで生死を彷徨う重篤な状態で乗れなかったと・・・。その船団は玉砕したと聞いている。
 それはこのことだったのか・・・。父の代わりに船団に乗ったという方の名前も実は分かっているらしい。

「昭和19(1944)年6月12日、「あ」号作戦を控え、大和と武蔵は、ハルマヘラ島西南部沖のバチャン(Bacan)島へ到着、妙高、羽黒、鬼怒と合流した。」
https://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200902/article_23.html

という情報が目に留まりました。渾作戦とは・・・?

 結果、父はマラリアで命を落としかけて、そのお陰で生きのびたのです。
そして、昭和21年6月18日に山口県大竹にあの横浜に係留されている病院船氷川丸で還ってきました。
 横浜に出掛けて氷川丸に乗ってみる、その船のことを現地で調べてみることにしていました。つい最近まではGOTOを使って氷川丸を訪ねる予定でした。なのに、コロナショック第三波が深刻で足が引けてしまいました。

父さん
物語は始まりましたが、まだ何も書けていません。

 またもや、何かが邪魔をする。知りたくないのか。そこで感じることを止める何かがあるようです。どうやら、横浜に行って氷川丸に立たないと書けないらしいのです。
その場で見えること、感じることを書きたいと思っています。

父さん
これからは、兵歴簿に沿って、史実と併行して検証しながら物語を綴っていくことにすると。

 書き始めて一年を過ぎても、父の物語では肝心のハルマヘラにはまだ転進もしていないし、まだ戦争にも行っていません。
どうやら、また、待ったをかける何かが働いている気がします。

 ここまでお読みくださった皆さま、どうか、これからも気長にお付き合いくださいますように。


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