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広島大竹への取材旅:二日目・・・大竹・宮島編

2021年12月22、23日、2日目
倉敷アイビースクエアで一夜を過ごして、早朝の美観地区を歩いて駅へと向かう。
レンガ壁に沿って歩いていると、あ~、そうや、この街は父と二人で歩いたなと思い出した。何で忘れてたんやろ。

しかも、米子、松江は展示会で出張して、玉造温泉に泊ったことも一気に思い出していた。そこで、翡翠のペンダントを買ってもらった。それは唯一の父親から買ってもらったプレゼントだったことも・・・。

昨日はその沿線を通り過ぎながら思い出しもしなかった。
今回は、父と一緒に尋ねた場所を再訪することになっていたらしい。

出雲大社に行けたことも、虹を見たことも、旅の途中で出会った29歳の彼女のことも、憧れていたことさえすっかり忘れていたのにアイビースクエアに泊れたことも、全部父からのギフトだったのかと気付いた。

父の足跡をたどる旅でギフトの倍返しをしてもらっていたようである。

大竹に行くまでに、間に合わないと思っても、乗り換えもうまくいったし
駅に降りて、若い駅員さんに聞いても要領を得ないことだけど、一緒に考えてくれた。
まずは図書館に行くことにした。10分ほどで着いた。

南方からの引き揚げ港であったことは町の大きな歴史であった。
ただ、舞鶴のように長い期間ではなく、短い期間だったことで
その重要な役目を果たしたという歴史は
この町では間違いなく風化が始まっていると感じた。

ありがたいことに、地域の歴史は図書館にはわずかだけど残されていた。
職員さんは、これまでに調べに来る人がいるのだろう。
素早く対応してくれたし、熱心に心を添わせてくれた。
心より感謝しかない。

数枚あった引き揚げの写真の説明文に声が出てしまった。
昭和21年6月17日と。それは父が病院船氷川丸で帰還した日だった。
これらの写真には写っていないけれど、そこには父の姿があった。
それは大きな驚きと、ここまでたどり着けたことの喜びをもたらした。

国立大竹病院の負った役目はまさに目を見張るものだった。
父は、肺結核とマラリアに罹患していた。おそらくは担架に乗せられたような状態で入院した。そこから数か月の治療のおかげで故郷に帰ることができた。遅い帰還だった。
故郷では、痩せさらばえた姿で現れたことで、幽霊騒ぎになったことを父は語っていた。
幽霊にされるってどんな気持ちだったのだろう。なんか面白そうだけど
悪い冗談のような話だけれど、そんな話はたくさんあったと聞く。

今、皮肉にも、新型コロナのオミクロン株の市中感染が始まったばかりである。水際作戦はまたも失敗に終わるのだろう。本気でやっていないとしか思えない。
あの戦後の最悪の状況下で、マラリアが蔓延して全国的にパニックになったというのは聞かない。私が知らないだけだろうか。
多くの疫病を抱えて帰ってきた人達の受け皿になったのがこういった病院だったのだろう。1000人収容のところ、6000人を収容したこともあったらしい。
なぜ、今の時代、それができないのだろうか。単純に疑問が残ってしまう。

さて、肝心のその港も、国立病院も実際にこの目で見たいけれど、すでに閉鎖されていて、移転して新しい病院になっている。跡地は、化学プラントの工場になっている。
わずかに、史跡として残された緑地があるということで、タクシーに乗った。運よく運転手さんは高齢だったが地元の出身の方ではなかった。ただ、1年間に一人か二人、私のように訪ねてくる人を乗せるということだった。

港を徐行してゆっくりと見せてくださり、記念碑のある緑地でも、メーターを倒して外に出て煙草を燻らしていてくださった。その時間、私は心の目で病院や引き揚げ港の姿を見つめることができた。

どこでも、なんでも乗り放題の切符で宮島でフェリーも乗れた。
あんまり天気がいいのに誘われて途中下車したくなった。厳島神社にもお参りした。すぐに帰りたくなかった。もっと旅人でいたかった。
鳥居は工事中で隠されてて、干潮でう~んな状態だったけれど・・・
観光客になって土産物屋を見たりして楽しんだ。
最後にはわざと時間を稼いで、もったいなくて絶対乗らない特急はるかにも乗った。乗り鉄女の面目躍如というところだろう。

特別な時間が流れた2日間だった。
父から贈られたクリスマスプレゼントのような旅だった。
出逢いと感動にありがとう。
まだこんなに感動できる私にもありがとう。








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