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一枚の自分史:晴天の霹靂「何してくれるのよ、お母さん」

母と6人の孫+α、花博を行く、迷子顛末記

 1990年8月10日、母は65歳、 私が40歳で兄は中学1年生13歳、妹は小学4年生10歳の夏休みのことでした。
 母は、まだ幼い7人目の孫を除いて6人の孫、そして+αで近所の小学生で多分ひろちゃんという名前だったと思う。一人で子供たちを連れて大阪花の万国博覧会に颯爽と引率をして行ったことがありました。
 子供たちにとって夏休みのいい思い出になるはずでした。ところがとんでもないことになったのです。

 前日から兄と妹の二人は子どもたちだけで実家に、母のところに泊まりに行っていました。
 その日、私は子供たちもいないので残業して8時前に帰宅しました。鍵を開けていると、電話が鳴っています。慌てて飛び込んで受話器を取ると、
「花博会場の警察駐在所です。今、お子さんを保護しています」
 まさに晴天の霹靂だった。どういうことなんだろう。
 「中学1年生の男子と小学3年生の女子が迷子になっていたので預かっています」
 というのです。なんで花博会場なんだろう。慌てて、とるものもとらずにすっ飛んで行きました。鶴見区の花博会場までは同じ大阪とはいえ結構かかります。着いたら10時前でした。
 花博は当然、その時間ですから閉場しています。真っ暗になった会場に、ぽつぽつと心細く外灯がついている。 まさに戦い終えて日が暮れた会場でした。「子供たちが警察に保護されている」、なんでそんなことになったのか事情がよくわからない。不安な気持ちがその風景に投影されていたのでしょう。今も目に浮かびます。
 雑然とし た駐在所には巡査さんがお二人いらっしゃいました。すぐに息子の安堵の表情が飛び込んできました。「何やってんのあんたは」と言いたいけれど、それより何より、どうやら警察にはお手間をかけてしまっている。まずは深くお詫びしました。巡査さんは優しい笑顔で、
「いえいえ、良かったね」
と、息子と私の顔見て、いきさつを話してくれました。
 日も暮れて、万博会場が閉まっても、いつまでも2人の子供が入り口に心配そうに立っている。 気になったので聞いてみたら、
「おばあちゃんたちとはぐれてしまった」
という、 もうすでに会場は閉まっているので、中にはもう誰もいない。まずおばあちゃんのところに連絡しようということになったが、息子さんは電話番号を覚えていなかった。おばあちゃんからの連絡を待つことにした。そうこうしているうちに、家の電話に繋がったということだったのです。
確かに おばあちゃんの家の電話番号は覚えていないだろう。 私の会社の番号も覚えてはいないだろう。 そうすると、こうするしか仕方がなかったのだろう。

 時は夕方だった。息子と姪っ子の二人がお手洗いに行くからと母たちと別れた。 お手洗いから出て別れたところに戻ると母たちはいなかった。そして同じように母たちを探していた姪っ子と合流した。
 息子はきっと おばあちゃんが何とかしてくれると思っていたらしい。会場から離れずにここで待つ方が絶対いいと思ったらしい。しかも、交通費を持ち合わせていなかった。会場でアナウンスをしてもらうというのはどちらも気がつかなかったのだ。 う~ん、もう~。

 息子の顔を見て人心地ついてから気がついた。テーブルの上に2つの空になった丼鉢があった。そしてその横のソファには姪っ子が大きく手足を広げて寝入っていた。余程、草臥れたんだろう。タオルケットがかけられていた。
 「警察のおっちゃんが出前とってくれはったんやで」
と息子がお気楽に嬉しそうに言った。
「 何言うてんのんや、  それをはよ言いなさい」
「 申し訳ありません。ありがとうございます。お代金は」
 取ってくださいませんでした。
「 うまかったか? お腹、空いとったもんな」
「うん、美味しかったで」
 すっかり打ち解けて嬉しそうに話してる姿に呆れるしかなかった。
 中学生にもなって情けない。 こんな 頼りない子を育てて、親としてお恥ずかしい。ほんまに田舎もんやわ、大阪市内の子やったらもっとしっかりしてるやろなと思った。どこまでも、警察の方のやさしい対応に謝罪と感謝しかなかった。
 
 途中まで寝た子を背負って母の家まで帰った。寝静まっていた。母も多分 ウトウトしていたのだろう。その疲れ果てた顔を見たら何も言えなかった。
 言い訳するように、「きっと お兄ちゃんが一緒だから自分たちで何とか、帰ってくるだろう」と思った。それより、小さい子らがくたびれていたので連れて帰ることの方が大変やった。そやから家に帰って待とうと思ったというのだ。
 一番くたびれていたのは母だったのだろう。65歳になったら普通は子供たち 7人も連れて、しかも、夏盛りだ。高齢者がウロウロする時期じゃない。 夏休みで混雑している花博会場には行かないだろう。 そういう判断もできなかったのかな。 無謀な冒険だったかもしれない。 私もさすがにそれはしないだろう。

 1990年はバブル景気崩壊の年だった。父が亡くなった翌年だった。父が亡くなってから1年間の母はぼーっとしているばかりで私たちはとても心配をした。そして1年が経った時に、こう宣った。
「これからが私の青春や」
 母の青春は戦争に始まった。そして戦争が終わった後、よく知らないままに父と結婚した。その後は父に振り回される人生だった。自由に生きることはできなかった。それはそうやね 。今が青春、そうかもしれないと思った。 それからはしっかりしていたし、すっかり元気になった。自由に行きたいところに行き、学びも始めた。だから自分の健康と歳を過信したんだろう。
 母も、忙しい親たちに代わって、孫たちには夏休みのいい思い出を残してやりたい、そう思ってちょっと無理して連れて行ったんだろう。その気持ちは 痛いほどよくわかる。
 今だったらもっと怖い事件に巻き込まれていたかもしれない。大事にならなかったからよかった。
 大人になった息子と姪っ子。たまにその話が出たら必ず大笑いになって
いる。
 
 他人ごとではない。元気だと思っているけれど、私の場合だってそうだ。 74歳はもうすでに子供や孫にお世話になる世代だ。
 でも、孫にはいい思い出だけを残してやりたい。これからはできるだけ迷惑かけずに自分のできることだけをして、颯爽と去りたいと思う。
お母さん、ちょっといい恰好しそびれたよね。


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