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「ひいばあちゃんのお小言」

 私の講師業の始まりはマナー講師からだった。きっかけは母だった。

 父が68歳で亡くった後、母は天下茶屋で70歳を超えても、一人で元気に暮らしていた。ある日、
「福井県の大野の作法の家元のところに通って、師範の看板もらってくるから、二つ入っている生命保険を一つ解約してもいいよな?」
 と言って来た。
 確かに、茶道や華道など、こういう習いごとで師範の看板をもらうには百万円近くかかるが、何で今さら、そんなことを言い出だすのだろうか。
 そのころは認知症とは言わず、痴呆症と言ったのだが、いよいよ痴呆症が始まったのか? おかしなことを言い出したな? まさか、まだ、早いだろう。
「自分で掛けている保険だから好きにしたらいいやん!」
 と、私は、どうせ言ってるだけだろうと、
「ふんふん」
 と聞き流していた。
 すると、
「勉強するのはこの歳では大変やねん!」
と言いながら、本当に毎月通い出したのだ。そのことは、同じ年頃になった今、痛いほどわかる。
 それよりは、四時間もかけて泊りがけで行く方が大変じゃないのか? そんな心配をよそに、おしゃれをして楽しそうに出かけていたようだった。
 しかも、大野は、母が生まれた勝山の隣町で、故郷に帰ったり、学生時代の友人の家に泊まったりと、今から思えば、若いころに戻った思いだったのだろう。

 そこでだが、何故、いまさらだったのだろうか。母には、五人の孫娘がいた。その孫娘たちの行儀の悪さが気になっていたようだった。
特に、番上の孫娘のことが気になった。ほとんどこの娘が主にお行儀が悪かったわけだった。
「親の顔が見たいわ」
 と思ったそうだ。
「ちょっと、おかあさん!それって私のこと?」
 電車に乗れば、若い女の子がだらしなく腰掛けて、ことば遣いも悪いし、お化粧も平気でする。また、
「親の顔が見たいわー!」
 と思ったそうだ。
 それで、はたと気がついたらしい。
「これは、自分たちの責任だ! 戦争が終わって、生きて行くことだけに一生懸命で躾もなにもできていなかったからや!」
 だから、自分が勉強してきて、ちゃんと孫たちに伝えなくちゃならないと。
 そこから、六年、母は福井県大野に通った。口述筆記したものをワープロ起しするのは私の仕事だった。嫌々やっていたから、
「こんな汚い字ぃ、読めへんやん!」
とプリプリしながら、調べながら文字にしていた。だが、今思えばそれがいい勉強になっていた。

 そんな母の想いから、そのころの私は仕事に追われ、子育てに追われて、面倒臭くて逃げ回っていた。
ただ、子供たちは、作法のお勉強ですと言われて座らされていた。座布団の使い方など、よくもまあ嫌がらずに聞いていたものだった。
 孫たちはみんなおばあちゃんのことが大好きだった。

「二年で看板とってくるわー」
と言っていたが、案外かかった。
通い始めて五年後に看板が届いた。
母が七十歳になってから作法の家元に通い始めて、作法師範の看板をもらったのが七十六歳の二月だった。
 その六月に病に倒れ、そのまま二年半、病院と施設を行き来することになった。できるだけ母の様子を見るようにしていたのに、少し疎になった時でした。悔やんでも悔やみきれなかった。
 心の半分はどこかに置いてきたような母の姿、リューマチに侵されて、痛い痛い病院での日々。介護度は五だった。一人だと食事にも手をつけないから、会社に行く前に寄り、お昼休みに駆けつけ、会社の帰りにも病院によって一緒に食事を採るようにした三ヶ月間。ダメなときは大学四回生で就活中の娘が私の代わりをしてくれた。
 退院してからは、老健の施設に入った。ずいぶん元気になった。三ヶ月後、施設を出るにあたっては私のところで暮らしたいというのが母の希望だった。それなのに、弟のところに行くようにと説得を毎日繰り返した。家では母を引き取ることには全員の同意を得ることができなかったからだった。

 弟のところでも同じような老健施設に入居することになった。最初は施設で一番元気なおばあちゃんだった。他の入居者さんの洗濯ものを畳んだりとお世話を焼いていたらしい・・・。
 学んだ作法のファイルが数冊に及んでいたものを本にしてほしいと言う。
弟たちは、母が呆けてきたから「何とか諦めるように説得して!」と言う。いやいや、なんとかその望みは叶えてあげたいと思った。どうしたら、本にできるだろうか。ブログで発信し、それを纏めて出版がいいのではと思っていた。

 その矢先だった。何時までも家に帰れない自分のことが辛くても、あの世代の人はとことん我慢をする。病気で手が動かない。好きな手仕事もできない。絶望しかなかったのだろう。どんどん坂道を転げて行くように呆けていった。まるで、自ら選んだようだった。
 お作法のこと、後を継いでやってほしいと何度も何度も言う。私は、するすると逃げ回っていた。しまった!と思った時は、いつも遅い。会社のリストラで、毎日が残業で、どうしようもなかったのだ。

 言い訳しているうちに逝ってしまった。私は後悔の念で食事ができなくなった。それでも働き続けたら、介護を始めたときから10Kg以上痩せていた。
その夏は異例の炎暑だったそうだが、一切暑さを感じることなく秋になった。

 毎日、仕事に追われる私。どんどん坂道を転げるように弱っていった母。
それでも、まだ大丈夫と思っていた私。命を助けるための手術が、死を早めてしまった。何も話せず、聴くこともできずに母は逝ってしまった。何をしてほしかったのだろうか。
 仕事と家事をただこなして、後は疲れて寝てばかりいた。それしかできなかった。
 やがて、その後に来たのが喪失感と深い後悔だった。誰からも痩せたねと驚かれるようになっていた。

 三ヶ月目、母は何がやりたかったのだろうかと探し続けました。作法のファイルが何冊か残されました。
母に作法を繋いでほしいと懇願されても仕事を理由に逃げ回っていて、取り返しのつかないことをしたと思うと居たたまらない日々でした。
 関西にある作法会を探し、何も考えずに説明会に参加しました。そしてすべてはご縁だと思い、そこで作法を学ぶことにしました。

 一年くらいは、母の所作の美しかったことを思い出します。自分の姿勢の悪さや付け焼刃ではできないことを思い知るばかりでした。なんて勿体ないことをしてしまったのかと、ますます後悔するばかりでした。
 作法会では、年齢は重ねながらもできていないことを思い知るばかり、会長や先輩方から注意を受ける度に自信喪失していくばかりでした。
 作法を学んで解ったことは、知っているようで解っていなかったこと。
解っていてもできないこと。意識したらできても、自然にはできてはいないことだった。貴重な学びだった。
 私は、生来できないことがあると嫌なんたちでした。反発力で生きてきたようなところがあって、ここは結構な頑張りだった。

 そして、その一年後に娘が入会してきます。ほんまにびっくりしました。
説明会に行って、試し授業を受けて入会してきたからという事後報告だった。
 娘は働いて3年経った時、このままこれからもずっと同じように勤めているだけだろうか、いや無理だと思った。このままでは嫌だ! ステップUPしたい! そのために、何をしたらよいのかを色々探していた。
娘が入会したきっかけは
「祖母が亡くなって落ち込んでいた母が作法会で学び出してから元気になったこと」
だったと聞いた。 
「ちょっと待って!」
これって、もしや母の陰謀ではないだろうか。 母が作法の道を目指した原因は、まがうことなくこの孫娘にあったのではなかったか。
「おかあさん、やってくれるね! あの世からきっちり送ってるよね? 違ってるかな?」
  母が作法を始めたのが、この娘のお行儀の悪いことが始まりだった。母が亡くなった後、私は母の後姿を追いかけた。そして、娘が私の後を追いかけてくる。ということは、
「ははーん! そういうことやったんやね」
 母の目的は、この娘だった。ということは、私はその橋渡し役だったのか!
「やってくれるよね! おかあさん! 我が意を得たりやったね!」

 その頃は、作法会では本町に大阪教室があって、娘の会社は西長堀。仕事が終わらず、七時からの授業に間に合わないと、会社の自転車で暴走して来て、終わると会社に戻って、また仕事をして、十一時ごろ帰宅するというパターンで週二回でした。
 私もぼやぼやしていられなかった。総務部の仕事は、何もなければ定時で終わる仕事だが、授業がある日に限って、何かトラブルが起こった。五時過ぎて内線が入るといやーな予感がします。バタバタと仕事を片づけることを苦々しく思っていた人もいたことでしょう。毎回、電車に飛び乗るというアクロバットを繰り返しながら、皆勤で修了しました。マナーの講師なのに顰蹙ものでした。

 そうこうして、準師範をいただきましたところ、早速、仕事が入りました。和泉市にある大学で、一年に四回から六回、留学生たちに日本のマナーを伝える非常勤の講師です。有給休暇を工面して四年続けました。
 そして、定年退職を迎えました。同時に、兵庫県の福祉系の大学の留学生に「ビジネス日本語」の講座を二コマ通年で開講することになりました。

 何かを始めると、仕事の方からやってきました。これぞ、我がはからいにあらず! その後も、三十年事務職だったのですが、サービス接遇職の方が適性があったらしく、接遇の勉強を始めたところ、すぐにサービス接遇指導の仕事が入るという準備のよさも我がはからいにあらずだった。こういうことが重なるのが不思議だった。これも、みな母がやりたかったことらしい。母の野望は留まるところを知らずだった。

 マナー(作法)を孫たちに伝えるのは母の思い。母がやりたかったことだ。どうやら、私の周りにいつも母はいるような気がする。自分のキャリアの集大成をしながら、父の物語を書く。それが済んだら、
「おかあさんのしたかったことするからね。順番待たせてごめんなさい。
ちゃんと見ていてくださいね!」

 父の物語を書くことは命のバトンを次世代、次々世代にツナグことだった。母の物語を書くことは心のバトンを次世代、次々世代にツナグことだ。
父のことを書いている間中、肩の向こうで見ているような気がした。
「頑張って書きや、終わったら次はかあさんの順番やで」
そう言われている。
 そろそろ「ひいばあちゃんのお小言」を書かないといけません。これまで主に私が食らった美しくもやさしいお小言を母のひ孫に向けて繋いでいきますね。そのためにここで書き溜めておこうと思います。しばらくお付き合いください。

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