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一枚の自分史:また、二人で旅をしようよ。

 1972年3月、22才の春、ちょうど50年も前の話である。九州を長崎から熊本へと、高校時代に部活や同じクラスで受験勉強も共に頑張った友人と一緒だった。大学を卒業して社会に出るまでの休みを利用しての卒業の旅だった。彼女はすでに社会人で彼岸休みを利用しての旅だった。
 彼女も大学を卒業したかっただろうに、親の事情でその道を閉ざされた。 私の卒業旅行に付き合って、自分も引きずって来た思いから卒業したかったのかもしれない。
 私たちには忘れられない思い出があった。その3年前に、私は彼女から援けを助けを求められていた。その時、私は部活の合宿に行って留守をしていた。彼女は1年浪人し、働いて入学金を自分で貯めてから受験した。難関の大学に合格したにもかかわらず、彼女の父親が勝手に使いこんで入学金を納めることができなかった。帰宅して夜に電話をしたその日が納入期限だった。
 問わず語りで父母に話した。父が次の日、彼女の入学金を都合をつけてきた。「これを持って大学に事情を話して頼んでみなさい」というのだ。驚いた。でも父ならそうするだろうとどこかで思っていた。我が家の商売だってだってとんでもなく厳しいのに、この義侠心が仇になる。
 二人で京都の大学まで行ったが受理されることはなかった。雪の降る今出川界隈を二人で泣きながら歩いた。
 彼女の不幸は終わらなかった。彼女の父親は、父が無理して工面してきたお金を臆面もなく借りにやって来た。私の友人のために父は激怒した。そしてこのことは彼女には話していない。一生話すことはないだろう。
 だが、なんとなく、疎遠になった。

 次に出会った時は彼女は一人で子供を育てていた。子育てをしながら働いていたが、職場には恵まれていた。そんなころの私は旧村地区に嫁して、周りとの価値観のずれに消耗していた。不毛な気苦労の連続から抜けるために働くことにしたが、会社でも苦手な問題解決が仕事になった。体力、気力、時間を切り売りする日々だった。

 70歳を目前にしても、彼女は度々家族の金銭問題で窮乏していた。何度も援助を求められたが、私のできるのはほんの少しだった。それでも繰り返しは続かない。できる励ましは続けたかったが、毎回断るのがあまりに辛くて送受信を断った。私は父のようにはなれない。共倒れになるのは目に見えている。
 その後、コロナ禍をどう過ごしているのだろうか。ますます困窮しているのではないだろうか、気になっても連絡方法は絶たれた。

 かっての彼女は多くの苦難の中にあっても、いつもほっこりと笑っていた。まるでどこ吹く風という風情でやり過ごしていた。苦しくても苦しそうな顔はしなかった。なぜか美味しくて安い店をたくさん知っていた。
 そのころ、私にはピンチが団体で押し寄せていた。苦しかった時、仕事帰りに1時間ほど美味しいものを食べて少しだけ酌み交わした。「美味しいね」と誰とご一緒するより美味しく食べられる相手だった。数か月に一回だったが、それが一番元気が出た。私たちは不思議と愚痴も弱音も吐かなかった。それだと美味しいものが美味しくなくなるからだ。彼女から多くの癒しと励ましをもらってきた。
 私たちの人生の波はいつも互いに相反してやってきた。その合間を縫うように旅を何回かして美味しいものを食べた。いつだったか、鈍行列車の中で見たかわいい二人のおばあちゃまが蜜柑を分け合ってずっと楽しそうに話し続けておられた。その姿を見て「私たちもあんなんなるんかな?」「なるよね!」そんなたわいない会話を交わしたことを彼女は覚えているだろうか。

 また旅をしようよ。あの日、見たおばあちゃまたちみたいに。彼女が自分のチカラで立ち直れることを信じることしかできないけれど、その日をずっと待ってるから。


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