見出し画像

のりっきいの自分史B2:出逢い~ハワイ~虫屋敷で一緒に暮らして

出会ってから、彼がアメリカに帰るまで、私は二人の子供の存在も忘れるぐらい3ヶ月間を思いっきり楽しみました。
彼との付き合いはあくまでも、この3ヶ月間だけと心で決めていました。私の中では、彼とのことはこれで終わらせるつもりだったのです。もう死語かもしれませんが、俗にいうアバンチュールとでもいいましょうか、その時だけを楽しむだけのものだったのです。私にとっては。

ところが、彼からのエアメールが、日本を離れて一週間経つか経たずで
着きました。もちろん、 私には読めないので、英語のできる友人のところに行って、訳してもらいました。

今、思い出しても笑いが止まらなくなります。まあ、よくその状態で彼と手紙の交換ができたものだと、今振り返ると、こっ恥ずかしいやら、あきれるやら・・・。

ともかく、それから毎日のように、彼からのエアメールが届きました。最初の4,5通の エアメールは、その友人に訳してもらって、読むだけは読んでも、返事はせずにそのままにしていました。
ところが、毎日のように来るので、これはどうしたものかと彼女に相談をしてみました。彼女が言うには
「この人はのりちゃんのことが本気で好きよ!」
 と言うので、私にとってはただの遊びだったのですから、これではまずくないかと不安になりました。
それに私はすでに二度の離婚をしていて、子供も二人いる。彼は結婚の経験もなく、当然子供もいない。私にとっては対象外の男性だったのですから。

引きも切らず手紙が届きます。20通目ぐらいで、英語のできる友人に英語で返事を書いて欲しいと頼みました。それが私たちの本当の交際の始まりでした。互いにエアメールが行き交うことになりました。

次の年の2月に彼からきたエアメールには
「僕の誕生日は4月15日で、今、僕がいるハワイで、君に誕生日を祝ってほしい。だからハワイに来てくれないか」
 とありました。
その時、私はまだ母親から譲り受けた子供用品店を営んでいました。そう簡単に行きますというわけにはいきません。
ハワイにはこれまで行ったことがない。彼のことはさておき、一度は行ってみたいという思いがありました。

苦肉の策として、語学研修だからと嘘をついて、子供二人を父に預け、店は従業員に任せて、4月12日に5泊6日のハワイへと旅立ちました。

彼は、ハワイのオアフ島にある禅センターでメディテーションを学びながらそこに寝起きしていました。その頃、彼はベジタリアンに移行していたせいか、痩せていることが 気になりました。

ハワイでは、禅センターのあるオアフ島とマウイ島を案内してもらいました。マウイ島に行く時、同じ禅センターでメディテーションをしているドイツ人の70代とおぼしき女性から私たちにプレゼントだと言って、往復の飛行機代をギフトされ、青天の霹靂~。
私にとっては、彼女はそれまでに会ったことがない人だったのです。 その行為には驚きを禁じ得ず、しばらくは理解ができませんでした。
会ったこともない人に、どこの誰がそんな高額のプレゼントをすると思いますか?彼女にありがとう言う前に、「え! 何? どうして?」という言葉が先に口から出ていました。落ち着いてから、やっと「なんてGIVENな人なんだろう!」 ふつふつと感謝の気持ちが湧いてきました。

ハワイを発つ日、彼は私に飛行場でシャネルの5番のオーデコロンをプレゼントしてくれました。
それ以来、私のお気に入りのオーデコロンはシャネルの5番です!

飛行機の窓から彼の姿を見て涙ぐんでいるという、なかなか普段は見られない光景!そんな自分を発見して驚いていた遠いあの日のデテールが鮮やかに蘇ります。

その後、彼は実家に帰り、そこで半年ほど過ごしていたころ、友達になったドイツ人のハーディ(私をジュエリーに紹介した張本人、つまりキューピット)が訪ねてきて、共に過ごし、その後二人はアメリカを横断して、日本に戻ってきました。

日本に戻ってきたのは、1983年の1月の末頃です。
飛行場で彼を待つのですがなかなか現れません。インフォメーションセンターに行って、フライトの遅れもチェックして、予定通りついていることを確認したにも関わらず、やはり彼を見つけることができませんでした。
半時間も探していたでしょうか、向こうの方から見知らぬ外国人が私に手を振っているではないですか!そしてだんだん近づいてくる。心の中で気持ちが悪いなと思っていると、その見知らぬ外国人が「のりこ!」と私の名前を呼ぶではありませんか!
私はその人を見て
「誰?」
「アイ.アム.ジェリー」
 と言って近づいて来た彼は、まるで別人のように痩せこけていました。
多分これはベジタリアンのせいかな?(第三者の声:いやこれはきっと恋患いに違いない!)
とにかくここで彼がジェリーだということが分かって、一緒に大阪に連れて帰りました。(第三者の声:この二人、なかなか会えないのが定番のパターンらしい・・・)

彼は、以前、3ヶ月間住んでいたキューピットのハーディも住んでいた京都の岩倉のアパートに戻りましたが、私とどうしても住みたい。京都で一緒に住まないかと言ってくれたのです。
彼への思いは以前のような遊びの感覚ではなくなっていたので、このときは大阪の子供用品店を父に任せ、子供二人を連れて、大阪から京都の上桂に引っ越しすることになりました。

時は1983年2月の寒い日でした。 巷ではおしんブーム、東京ディズニーランドが開園したそんな頃でした。

さて、竹林に囲まれた純和風のロケーションが気に入って、なけなしのお金を払って引っ越したのですが、スィートホームのはずだった京都、上桂の家は何と大変な虫屋敷だったとその後に発覚します。次々といろいろな虫とのとの戦いが待っていました。

ハワイで私とジェリーに空港券代をギフトしてくださったドイツの女性も来日して滞在してくださったのですが、旧式のトイレの設備のせいで体調を崩されてしまったことは今でもとても申し訳なく、後悔でいっぱいです。

詳しくは、お茶会などでお話させていただきたいなと思います。涙と笑いの物語を是非お聞きくださいね。

1984年の1月、新しいマンションに親子共々ジュリーと一緒に引っ越して、やっと虫の恐怖からは解放されました。
上の子ども達も新しい家に馴染み始めた7月には、新しい命も誕生しました。私たちの娘です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?