のりっきいの自分史B1:ジェリーとの出逢い・・・英会話の学習(三十代前半)

三十歳
日本経済は石油危機や円高による不況を乗り切り、安定成長時代をむかえた時代だった。
亡くなった母から受け継いだ子供用品店を営んでいました。
ある日、外国人の母子客が店にやって来た。
その母親は店の商品のシンプルさと仕立てがしっかりしていることに気に入って、彼女の息子に二枚程、購入していった。
勿論、その時、英語の出来ない私が言える言葉ば「サンキュー」だけ。

翌日、何と!
その親子は「良い子供服を売っている店があるから」と彼らの外国人の友人の家族を伴って再び来てくれたんです。
両方の家族は、「遊び回る子供にはこう言うのが一番!」というような言葉をお互いに交わしながら、結局、数枚購入してくれたんですよね〜。

その時、私が口に出せたのは、昨日と一緒で、いえる言葉は「サンキュー」だけだったんです。

なんだか申し訳なく感じたり、情け無なく感じたり・・・、二日も続けて来てくださったお客様にサンキューの一言しか言えなかったんですから。

「今後、外国人のお客様が来た時、これじゃまずいでしょ」学生時代、あれ程、嫌っていた英語を仕方なく習うことにしたのでした。

あの頃は個人が営んでいる英会話教室は、大体、午後からがだったのだが、
新聞の広告欄には、何と~!梅田にある『キャンパス』という英会話教室が朝の9時30分からというのが目に飛び込込んできました。
それに加えて、“珈琲とケーキを楽しみながら英会話をネイティブと学びませんか?”と言う、キャッチフレーズにもつられ、週に一回、通うことになりました。

この英会話教室は、『教室』と言うのは名ばかりで元々バーを午前中から午後2時くらいまで間借りしていたようでした。

バーのカウンターの向こうに外国人インストラクターが座り、こちら側で生徒が座り、テキストもなく、マンツーマンで英会話をやっているという形式。
このスタイルのアイディアを出し、企画したマネージャーの猿橋氏(後のNOVAの創設者)の経営手腕は、最終的な現状ばどうあれ、素晴らしかったと振り返って思います。

必要に迫られて始めた英会話。その時は、この『キャンパス』で始めた英会話クラスがその後の私の人生に大きな変化と影響を及ぼすなんて、つゆ知らずにいました。

その頃、『キャンパス』は、5人の外国人を雇っていて、私の受け持ちの先生はハーディーというドイツ人でした。

二ヶ月目ぐらいたった頃、ハーディーから
「最近、鎌倉から京都に引っ越してきた禅の勉強をしているアメリカの友達がいるんだけれど、のり子、その彼を、京都見物に連れて行ってあげてくれないか」
 と頼まれたんですよね。

京都や、特に外国人には全く興味がなかった私、それに加えて、当然、まだまだ英語はまともに喋れないということで最初は断ったんだけど、
「彼が全部経費を出すから」
 と言う条件にひかれて引き受ける事に。

その頃、京都という街は、学校から社会見学ぐらいでしか行った事がないので、当日の待ち合わせ場所「四条河原町の駅の地上に上がった所」と言う大雑把なメモだけを貰って行ったから、さあ大変!ナント!出口が幾つもある!そんな理由で、彼と私は、互いに違うところで約30分程、ヤキモキ、イライラしながら待っていてと言う始末。
携帯などない時代なので、ただ待つしかありませんでした。

「後、10分待って来なかったら帰ってやる」
 と思いながら立ち尽くしていると
向こうから見知らぬ外国人がやってきて
「の’り’こ’さんですか?」

英語が苦手な私、その時、最初に出た一言が
「出口番号、書いてくれてないじゃない!」
余程、イライラしていたんでしょうね。

運命の人に?こんなかたちで、やっと逢えました。

彼の友人ハーディから聞いたという高級日本料理店でランチをして、嵐山や近くのお寺を数カ所を廻ったのですがほとんど覚えていません。
だって、その頃の私って、残念ながら、歴史には興味が無かったんですから。
なぜ彼がガイドを必要としたのかがわからない。だって彼が全部案内してくれたのですから。

本当に片言の英語しか話せない私と小学生程度しか日本語を話せない彼。
それでも二人は何とな〜く、次のデートの約束をしたのです。

高級日本料理店には

当然、私にとっても彼にとっても初めてのこと

ドキドキしながら入りました。


嵐山や近くのお寺にも行きました。
数カ所を廻ったのですがほとんど覚えていません。

だって興味がないのですから。


その時に思ったのです。
なぜガイドを必要としたのかがわからない。

だって彼が全部案内してくれたのですから。


それでも二人は案外に気があって
次のデートの約束をしたのです。


今から思うとその頃は

日本も高度成長期に入っていた頃だと思う。

経済は成長していたものの人の心が荒んでいたような感覚もある


なぜかと言うと、母子家庭である私や、子供に対して、毎日のようにハラスメントが絶えなかったことがあった。

人の気持ちにゆとりがある時は人の気持ちを痛めるようなことはしないと私は信じている。


ハラスメントがあった時の感覚は、今振り返ってみると、私の中に憤りや悔しさや怒りや

納得がいかないという思いが重なって、自分の息子を絶対に社会人として立派に育てる

そして人にバカにされないように私も息子も生きて行ってやると誓ったときがあります。


その時の心の状態

多分、かさかさかもわからない


今の日本は離婚や母子家庭もっと飛躍して、不倫を容認する傾向を感じるのは

私がハラスメントを受けた時代とは日本は全く違ってきたんだなという感覚を覚えます。


教育の場でも然りで、私の子供が先生からハラスメントを受けてもそれをよしとしていた時代から今は生徒や親が先生にハラスメントをするような時代に変わってきたという変、

これもやはり、私の心の中を砂漠のようにカサカサと感じさせるひとつである。 


こんな時代でも私の心情は常にすべてに希望を持つこと。 政治家でもできないことですが

私の一人の力では何がどうできるかとは言えないけれど、一つ言えることは自分の人生の中で常にどんな時でも希望を失ったことはなかった。



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