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一枚の自分史:半分は町の子・半分は田舎の子

商売をしていて、繁忙の中にあった家に育った
私たち兄弟は、小学生の頃から、夏休みになると
福井県勝山市の母方の叔父の家に預けられた。

大阪の下町、町育ちの私たちは、長い休みになると
田舎の子になった。

私の子供時代を語る時、この田舎(古里)のことを外しては語れない。

この写真は 1961年、11歳の夏休み
妹、弟、いとこや遠縁の子たちと何ということのない普段の姿が写されている。
いつも一緒に遊んでいた。

誰が撮ったのかわからない。
もしかしたら私のカメラで誰かが遊び半分で撮ったのかもしれない。
なんと私の頭が切れている。

巨人大鵬卵焼き、高度成長期から不況期への移行期にあった。
住まいのあった天下茶屋まで釜ヶ崎闘争の影響が及ぶ物騒な日々だった。
東京オリンピック前夜だった。

そんなこととは全く無縁の田園だった。
田舎と都会では大きな格差がある頃だった。

例えば、洗濯機なんかはない、川で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしていた。
お風呂も薪で炊いていた。
食材はすべて畑からもいできたばかりの野菜だった。

テレビもなくて、娯楽もない。
村では子供たちが大人たちのために、お盆のイベントを用意していた。
公民館で劇をするのだ。とっても ナンセンスな歌謡劇場だった。
恥ずかしくて、妹も弟も逃げた。
私は、ちょっと面白くて、ちょっとおだてられて、逃げ遅れて
一緒に練習にも参加して、 歌謡曲に合わせて踊ったりした。
マドロスさんに向かって、さよならさよならと演じるのだ。
ひゃ~、思い出しても恥ずかしい・・・。

山登りやキャンプにも参加した。

私たちは写真を見たらわかるように、田舎の子供達の粗末な服装に比べて
こ洒落たものを着せられていた。
街では、さほどに目立つことはなかったが、田舎では目立っていたらしい。
村の子どもたちからはちょっとした注目の的だったらしい。

ずっと後日だが、大雪でなくなった祖母の法事で、村のおっちゃんたちの一人から
「ほんまに、ゆーちゃんけ~?」
「昔はシュッとしてたのにぃ~?」
 と目を丸くして言われた。
ほっといて!すっかりおっちゃんになったあなたに言われたくないわ!
写真の中の一番小さい少年である。という今は昔の物語。

子どもだけで、遠くに預けられているのに、さほどの不安も覚えていなかった。
底抜けに明るい叔母と、口数こそ少ないけれど優しい叔父。
純朴な村の人たちに囲まれて、美しい自然の中でのびのびと山や川を駆けずり回って、まるで村の子のように暮らした。
大阪に帰ると色々と窮屈なことが多いと感じていた。

どんぶ(泉)で冷やしたもぎたてのスイカ、まっかのおやつは甘かったな・・・。冷やしたトマト、焼いたとうきび・・・、何も味付けは要らなかった。
叔母ちゃんが 煮た里芋の煮っころがし、茄子の炊いたん、 ぬか漬けの瓜
素朴で美味しかったな。誰にも真似ができない味だった。

風の日に遠くから聴こえるぼわ~んと下道を走るバスの音。
全ての音をかき消すようなひぐらしの鳴く音。
川のせせらぎの音。水車のまわる音。
蛇が天井を這う音のひんやりとした気配。
大きな仏壇の煌びやかさ。
ローソクと線香のむせ返る匂い。
仏間にずらーと並んだ見たことのないご先祖さまの写真額。
春のスキー場のベチャベチャの雪の感触。
囲炉裏のパチパチとはぜる音。
目の前に閃光が走り、畑の木を割いて落ちた雷。
世の中で一番強いものは雷となった。

都会育ちでは、体験できないことばかり。
私たちは半分は町の子で、半分は田舎の子で大きくなった。

叔父や叔母の人柄が良かったことはもちろんだが、
それ以上に、父や母は、自分の子供だけでも大変な中、田舎の親戚の子たちの面倒までよくみた。
そんな親の姿を見て育ってきたのに、私にはあそこまで到底できないと思う。
地縁血縁を大切にして生きた時代だったのだ。

半世紀やそこらで人のご縁は様変わりした。
今の人達にはなかなかできない。
ただ、あの田舎では、その姿はまだ残っていた。
叔母が、福井豪雪2018で命を落とした。その節に村社会の美しさを目の当たりにした。
あの深い雪に閉ざされた中では、人は力を合わせないと生きていけないのだ。

田舎の良さを町で育ったからこそ知っている。
半分、田舎で育った私たちがいなくなっても、子や孫の居場所としていつまでもあってほしい。繋がりを大切にして、いつまでも仲良くしていってほしい。
そのためにも、家族や親戚や地域のイベントを大切に繋いでいこうと思う。

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