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【連載】永遠のハルマヘラ~生きて還ってくれてありがとう~第三章 学び舎

  

学びの舎

父さん
旅の最終日、父さんが学んだ陸軍兵器学校があった、その場所に行ってきました。

セミナーに出席するために東京まで行った帰りに相模原に立ち寄った。
その朝、横浜線の淵野辺に向かおうとすると、横浜線が運転見合せになっている。
よくわからないけれど、とにかく東神奈川まで行くことにした。
そう思って乗換駅で降りたら、向かいのホームから電車が動き始めるところだった。
たぶん全部上手くいくんだろうなと、根拠なく、その時にそう思った。

もうすぐ淵野辺に着く。
雲が龍になって電車と並走している。
旧陸軍兵器学校の校舎に、一九四五(昭和二〇)年五月、麻布にあった学舎が空襲で焼けだされて、この地に移って、今は麻布大学獣医学部となっている。

この冬で一番の寒気を体感していた。
一本道を歩く道すがら、静かに涙が流れ続ける。
冷たい風のせいだ!私は目の粘膜が弱いから、寒風に吹かれると涙が流れる。そうだったはず…。
まただ!また、誰かが泣いてる。自分の感情が動くことで流れる涙とはまた違う!
誰かほかの人格が私を使って泣いている。

駅から十五分、全く迷うことなく直感で着いたところが、いきなり、旧正門前の記念碑の前だった。
まるで時間が歪曲したようだった。

記念碑の名盤には陸軍兵器学校の説明が記されていて、
 一八七二年(明治五年)東京小石川に諸工伝習所が開設され、その後、幾
 変遷を経て陸軍工科学校となり、昭和十三年淵野辺に移転、昭和十五年、
 陸軍兵器学校と改称され、八十四万平方メートルの敷地に七千人以上の人
 員を容したが、昭和二十年八月に七十三年に亘る歴史の幕を閉じた。
とあった。

麻布大学では、若い守衛さんに来訪の意図を告げたところ、親切にしていただいた。
古参の管財課の職員さんを呼んできてくださる。三十年前までは古い建物が残っていて、学生会館、クラブ部室などになっていたが、不審火で焼失したと申し訳なさそうに聞かされた。
なんということだろう。
昭和とともに姿を消していたんだ・・・。
平成の時代にとてつもなく変化に加速がかかったことを思うと、それ以前の建造物が残っていないのは想定内だったが、戦禍を逃れながら、その後に不審火で焼失したなんて衝撃だった。

追憶をたどって、遠路をここまできた私を気の毒に思ってくださったのだろう。
情報センターの職員さんには図書室に案内いただいて、自由に資料を手に取った。
何か手掛かりがあればと、博物館の職員さんも協力してくださった。
誰方からも親切にしていただいたことがただただ有難かった。

キャンパス内を歩いて、父のアルバムにあった場所を探し求めた。
旧舎の前庭跡だったところに、ポツンとベンチがあった。
疲れて座りこんだ頭上を自衛隊の飛行機が飛び交い、轟音が深い意識の淵に誘ってくれた。

意識の中で時を遡っていた。
見たばかりの図書館の資料にあった当時の学生たちの寮を覗いていた。
薄暗いフェリーの二等客室を連想させる風景が浮かび上がる。
そこに、若き父たちの姿を恐る恐る探してみた。
誰一人いなかったが、不思議なことに、そこには戦争の暗い影はなく、若い潔さと志に燃える強い意思や若い熱量が溢れていた。
そこにある清浄なエネルギーに圧倒された。
近い未来に待ち構える悲惨な運命を思って、そこにある闇をイメージしてしまっていた。
そこには、つかの間の青春を謳歌している姿と明るいイメージしかなかった。
そんな時代の父たちに会えたことに深い感銘と安堵を覚えた。

意識の旅から戻ると、父の古いアルバムにある写真に写り込んだ木々が、時を経て大木となって震えている私を見下ろしていた。

父さん、ごめんなさい。
陸軍兵器学校のことを調べていて、あるブログに出会うまで、志願すれば誰でも入れる学校だと思っていました。
その競争倍率は約四十倍の狭き門で、国家試験、弁護士、公認会計士くらいに匹敵するレベルの倍率ではないかという記述を読んで初めて知りました。

思ってもみなかった。
福井の山奥の寒村に五人兄弟の三男に生まれ、親から幼少より「椀と箸をやるから乞食に行け」と言われて育った。
尋常小学校を卒業したら、口減らしに大阪の船場島之内の莫大小問屋に丁稚奉公に出た。
その後、満蒙開拓青少年義勇隊を経てから学ぶことを選んだ。
むろん、学費なんてあるわけがないから、官費で学べる陸軍兵器学校を選んだのだ。
合格するのに父が相当な勉強をしたことは容易に想像できた。

苦労話はほとんど聞いたことがなかった。割とええかっこするところがあったので、自慢話にはしていたのかもしれない。
その頃の私は聞く耳を持っていなかったのだ。
1970年に20歳を迎えて学生だった私は、職業軍人としての父の戦争責任を問うという残酷なことをする親不孝な娘だった。

向学心はあっても貧しい若者は官費で学ぶしかなかった。
学んだ後、待っているのはお礼奉公と称して、卒業後すぐに外地の戦地に赴くことになる。
青春なんて、そこにはなかっただろう。
あの学び舎にいた短い期間がつかの間の青春だったのかもしれない。

父さん、ごめんなさい。もう、聞くこともできない。
何にも分かっていなかったね、私。

※下のブログを参考にさせていただきました。
昭和一桁生まれのひとりごと 第二三五回 陸軍兵器学校の受験
http://showagolu.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/235-0ee2.html

『陸軍兵器学校の受験』
昭和18年の秋、都道府県連隊区司令部から「陸軍兵器学校生徒募集要綱」が発表されました。希望者は願書・志望者心得を取り寄せて、第一志望・第二志望の工科をを記入し関係書類を添付して、連隊司令部に提出しました。
そして、連隊司令部から受験票と受験番号が送付されて来ましたが、今回の受験番号も何万と云う数字でした。今度は落とせないと云う気持ちで、身が引き締まる思いでした。
入学試験は昭和19年1月26日に身体検査、学科試験は2月25日、全国一斉に行われました。学科試験の科目は「数学」「国語」「歴史」「地理」の四科目で、これは前の受験の時と同じでした。しかし今度は自信満々でした。問題は何が出ても全く関係がありませんでした。
1月に行われた身体検査は、前と変わらずに乱暴な軍医でしたね。でも前の経験が有りますから、それなりに要領よく済ませました。「甲種合格」です。そして3月までの間に身上調査が行われたようです。勿論これは問題ありません。
しかし、2月25日に最終的の学科試験が終わったから、合格通知が来るまでの数週間・・落ち着かないこと、落ち着かないこと。なにしろ学校は卒業してしまっていますから、何もすることはありません。家の中を俯いてぐるぐる回って歩いているだけです。妹たちも、母も横目でちらちら見ているだけで何も誰も何も云いません。イライラが募っている状態ですから、怖かったのでしょうね。
そして3月の上旬に待った、待った「合格通知」が連隊区司令部から届いたんです。私はそれを掴んで、直ぐに学校に飛んで行きました。丁度担任の「磯辺館先生」が居られて「先生、合格しました」・・と叫ぶようにして「合格通知書」を見せました。先生は「飯田良くやった・頑張ったな・これからはお國のためにしっかりやれよ」と云われました。
「磯辺館先生」(いそかん)とは、これが今生の別れになってしまいました。
6期生の応募者は全国で六万数千人で、合格者は1595名でした。その競争倍率は約四十倍の狭き門でした。特に学科試験の「数学」では100点満点に近くなければ、合格は不可能であったと云われています。
現代でも一流の大学受験でも、こんな倍率の学校なんて無いと思いますし、超一流の国家試験「弁護士」「公認会計士」くらいに匹敵する倍率ではないでしょうか?

【陸軍兵器学校】
 『陸軍兵器学校の生い立ち』
此の学校の旧所在地は、神奈川県高座郡相模原村字淵野辺、にありました。
創立は古く明治末期から大正に掛けて「陸軍工科学校」として、東京小石川にあったようです。資料を見ましたら第20期まであったようで、その名残として「工華会」と云う組織が現在でも有るようですが、当時の在校生は老齢になって、余り活躍はしていないようです。
昭和14年に小石川より現在地の「相模原村字淵野辺」に校舎を移しました。
昭和14年1月17日に練習隊が誕生しました。
昭和15年7月28日付、陸軍兵器学校令に従い、近代化に伴い新たに生まれた工機兵の教育を行う学生は、佐官学生、乙種学生、戊種学生、己種学生、の四種で、校名も「陸軍兵器学校」と改める。・・とあります。
陸軍兵器学校は、予備役将校、下士官教育のために幹部候補生隊を設け、甲種幹部候補生に一年、乙種幹部候補生に六ヶ月の教育を行った。生徒隊の修学年間も三年間とする。
新設された新校舎の敷地約二十一万坪のうち、建坪は約二万五千坪であった。近代化のため、軍備改編で生じる新しい技術兵の要求に応えるため、幾多の新教育、訓練が実行に移された。
陸軍兵器学校生徒隊は、昭和15年12月1日、大東亜戦争完遂のため、伝統に輝く工科学校を受け継ぐ、陸軍兵器学校に第一期生八百四十名が栄えある入校をした。
以後終戦の年昭和20年に至る五年間に七期生まで入校し、五期生は最後の卒業生として、任官し、赴任のため母校を巣立ったのは、終戦の年昭和20年7月15日であった。
六期生については、すべての修学課程を修了し、部隊実習も終わり、卒業式を余すのみと云う時点において、8月15日の終戦を迎えたのであった。
古兵曰く
「帝都を西に約一時間、多摩の流れを越えて武相の丘陵を過ぎる頃、大山、丹沢の山々を配し、その背に気高く聳え立つ霊峰富士を仰ぐあたり、私達、百二十年前からの、二万数千人の卒業生は『母校陸軍兵器学校』の威容を思い出すのだ。」


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