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一枚の自分史:おじちゃんとカメラ

 一九五七年七歳頃の春かな?その頃、我が家では商売をやっていた、その店先での写真だ。
今の自分から見たらめちゃくちゃかっこいいバイク、その頃オートバイと言っていた。そこに妹と一緒に乗せられている。
たぶん母が縫ったブラウスとジャンパースカートはレトロだけど私たちには似合っている。
自転車もとってもレトロ、ご近所の看板がまるで三丁目の夕日の世界だなぁ~。
国道26号線沿いだったけれど、その頃は大した交通量はなくて、しかも、車はビューではなくてバタバタと昭和の音で走っていた。

 「おじちゃん、また写真撮るの?めんどくさいなあ~」
「オートバイぐらぐらしてて怖いやん!」
「早く遊びに行きたいのに~。もう~。」
 当時の心の声が蘇った。そのせいでちょっとふくれっ面で写っている。
 おじちゃんはあの柔らかな笑顔で「あ!いいなぁ~、かわいいなあ~」と、バイクに無理やり二人を乗せて、カメラの焦点を合わすのに夢中になっている。
 他にもギャラリーはいっぱいいたように思う。ご近所さんたちだ。

 父の弟の義男おじちゃんはサラリーマンで、近所の家に間借りしていたと思う。日曜日はお休みでも、その頃はそうそう行くところもなかったのだろう。盆と正月しか休まずに仕事をしている両親の周りでちょろちょろしている私たちはおじちゃんのカメラのいい被写体になっていたのだろう。

 ずっと不思議だった。なぜ我が家には私たちの小さなころの写真がこんなにたくさんあるんだろう。両親は忙しくて、いつもほったらかしにされていたし、戦後10年そこそこの時代で写真やカメラはまだまだ贅沢品だったのに・・・。

 こうして、一枚の自分史を書くために写真を整理しながら、そう思っていた。その中で、もしやと思い出して、おじちゃんの存在がどんどん確信に変わっていった。
 この後、結核に長く病み 、一人で自分で逝ってしまったおじちゃんの最期が悲しすぎて、いつのまにか居なかった人になっていた。
 こうして自分史に向かいあっていると、思いもかけないような過去の出来事と再会することがある。

 この頃は戦後十余年、国際連合に加盟、やっと世界に追いついた。日本初の人工衛星を打ち上げる。今、思えば、そこまで体力を戻したことに驚く。たった十年余りでそんなことをやり遂げるためには、随分と無理をしたことだろう。そのためにいい加減にした戦後処理のツケをその後も払い続けているんだろうな。

 こうして思い出すことで、私たちの心の中ではずっと隔離病棟に居たままのおじちゃんを外に出してあげることになるような気がするのだけれど、どうだろう。
 子供だったから分からなかったけれど、忘れてしまっているけれど、多くの人たちから手をかけてもらって可愛がってもらって育ってきたんだなってことも写真を見ていて思う。 
 もうこんな歳になっても、まだ援けてもらっている。そんな気がしてくる。

 幼い日の輝きを残してくれてありがとう。できたら大人になっていく過程も、そのフィルターから優しく見ていてもらいたかったな。

 そうや!コロナが収束したら、孫っ子と旅育に出よう。
子どもの日々のその歳だけの輝きに出会いたいから。でも、ちょっと面倒くさい、こんな顔されるんやろうな・・・。


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