のりっきいの自分史D2:くもんのスタート

KUMONのスタートも 一九九一年、確か五月に始めたと思う。カジノの仕事、 MBCC の学校、KUMONとみんな同じ時期にスタートしました。

これを始め出したのは主人がやりたいと言い出したからです。
何故かというと、日本で住んでいる時に公文の教室の話を聞いていて、彼も英語を教えていて教育には熱心だから、公文がいいということで、それをアメリカに広めたいということでやろうやないか。
マンハッタンとか LA やシカゴなら誰でもできるけれど、こんな田舎町でやれたら、田舎町で住んでいる子供たちにもそういうサービスを与えることができる。それがしたいという彼の大きな目的で始まった。

始め出したのはいいんだけれど、私たちの手元に残っていたセーリングは50万足らずだった。
そういうビジネスをしようとすると人に知ってもらわないといけない。田舎町でKUMONのコマーシャルも全くやっていなくて、結局、自分たちで全部やらなければならなかった。持ち金全部を広告にかけて新聞とラジオに広告を出した。それを二、三日間続けたら持ち金の50万は全部飛んでいった!

あの頃は個人宅以外なら、どこでも教室を開設できた。アメリカンリージョンといって戦争から帰ってきた在郷京軍人の協会が地域地域にあった。そこの一室を借りた。
さて、約50万円使って広告もやった。コミュニティニュースも使った。だけど、誰も来なかった。

2か月半ぐらいしてこれではあかん、場所がよくないんじゃないかということになったが、お金もないから何かしないといけないけれど、さあ何をしたらいいか分からない。
近くにモールがあるので、まずはご飯でも食べようということになって行ったら、モールの広場みたいな所に長いテーブルを置いて何かを展示をしている人がいた。
それを見て、私はジェリーに「これやってみたらどうか」「ここのマネージャーに連絡して、いくらかかるか聞いてみてよ」
次の日、問い合わせたら、なんとタダです。「やったー!」

すぐに食らいついて、次の日の土曜日にお願いして出させてもらった。
二日間、ボードにKUMONのフライヤーとかワークシートなど、また他の教室で勉強している子供たちの写真を貼ったり、ワークシートのサンプルを置いた。そこに、公文をやり始めてほぼ3ヶ月目についに一人やってきました。

インド人のインディアンの父親でした。子供は小学校の3年の男子、母親は医者でお金はいくらでもある。月35万円ぐらいする塾やシルバーバーニングセンターなどに通わせていた。お金があるからいくらでも行けるのだが、いろいろと試したけれどどこに行っても子供の成績が全然上がらない。
実は成績はほとんど B か C ぐらいで別に悪いわけではない。インディアンにしてみたら B とか C は落第と一緒で、A以外は全部だめなわけだった。だって医者の子供は医者にさせたい。このインデアンもそのメンタリティなわけだ。

結局、彼らにとってKUMONは最後の砦だった。「騙されたと思って」と、その父親はそう言っていた。

その時の月謝は65ドルだったか?「1 subject 56ドル?それぐらいだったら捨てたつもりで、今まで嫌というほどお金を使ったからね」と。それで騙されたと思ってやることにしたと私たちに言った。

「その代わり親も真剣にやってもらわんとあかんよ」と最初に伝えて、それができると言う。「もしできない場合は僕のワイフがやるから」
「毎日365日、1年間毎日ですよ。バケーションに行ってる時も子供さんに持って行ってもらって、親がちゃんとチェックしないといけない。それでもできますか」「それをやるとしたら喜んでウエルカムです」

その少し前に、私たちはプロフェッショナルビルディングの小さな一室を借りていた。まだまだ小さいわけですよ。 そこに初めて一人の生徒がやってきた。今でも覚えている、彼はサンビープといった。
スタートは年長ぐらいのレベルから始めた。初めから説明しているので親は何も文句を言わなかった。子供は課題が易しいのでどんどん進んだ。Aから B になって、4、5ヶ月足らずで彼はレベルC、小学3年生、かけ算の段階までいった。5月に入って、11月か12月になったら、レポートがある。アメリカは3か月ごとにレポートを親に渡す通信簿のようなもの、その時になんと彼は BとA になっていた。算数だけじゃなくて,算数はAで、他の教科も C がなくなっていた。

それを見たその親が自分の医者友達に紹介してくれた。
すると、トータル6ヶ月で、急にどーんと生徒が集まりました。つくづく思ったのがコマーシャルや宣伝は集客には大切だけど、やっぱり口コミが一番大切で、その人の信頼、実績が一番であるということでした。

その父親は言った。最初は厳しかった、耳が痛かったが、正直に全部言ってくれたことがよかった。普通どこでも言ってくれない、学校も言ってくれなかったことを言ってくれたのがありがたかった。用意ができた。心の準備が親も子供も必要だ。それが良かったと。

生徒が一番多い時で、あの田舎町で80人ぐらいいた。エンプロィを8人ぐらい雇った。それだけではなく、ドーイというユピカからニューハートの北の方に20分ぐらい走ったところにある小さい町がある、そこでもまたオフィスを開いた。私にとっては大成功だった。

私は鬼のミセスグリーン、ジェリーはエンジェル、ミスタージェイと呼ばれた。エンジェルは絶対 No と言わなかった。

私は二言目からめちゃくちゃから厳しいからスクリプト。でも、それが良かったみたいで、美味しいこと言わないから、鬼のミセスグリーンと呼ばれた。 アメリカは先生にリスペクトする時や感謝を表すのにリンゴを渡す。それを私はもらった。 クリスマスのプレゼントにもbest teacher でりんごの形のオーナメントを何回かもらった。

そのKUMONも日本に帰ることに決めた2013年、その時で一応、経営者のパートナーとしては引いたのだが、その後もジェリー一人ではできなくて、ペーパーワークとかお客さんとの交渉とか話は全部私がしたのです。
ジェリーは何しろ No と言えない人、困った人だから。
教えることはできるけれど、KUMONは教えたらあかん。
私は教えるのが嫌いだから、教えたら為にならないから。
彼は頭がいいから教えたい。
私は基本的に頭良くないから教えるより相手に考えてもらうことを大事にしている。

彼には全部任せることができなかったので顧問という形で日本に帰ってきた後も2020年までずっとやっていた。2020年で彼もKUMONをクローズした。権利を後の人に譲ったときも私は何ももらわなかった。 


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