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一枚の自分史:生まれて来てくれてありがとう

2015年6月20日、63歳、この頃は、大学生への就職支援が仕事の中心になっていた。リーマンショック以前の高水準に戻している状況の中で仕事もしやすく、ラグビーワールドカップでの五郎丸のポーズが話題になったりと社会全体がテンションの上がって比較的明るい状況にあった。

そんな日々、孫っ子は4歳を迎え、誕生日の前日にはユニバーサルスタジオでたくさんのスタッフさんからお祝いされて楽しい一日を過ごした。
子どもとは普段から大人がハッとするような発言をすることがある。誕生日の前日にもびっくり発言が飛び出した。
「アイは4歳になって、やっと人間になったわ」
一体誰が言わせているのだろう。それまでは何だったというのか。あまりにも可笑しくって大笑いした。
そして、翌日の4歳の誕生日には自らの胎内記憶を話し始めたのだった。

急に母親に向かって
「アイはずっとずっとお母さんとパパを待ってたんやで、なかなか来てくれなかったから、ずっとエーンて泣いてたんやで、で、気いついたら、あーちゃんのとこで寝てたねん」
(あーちゃんとは私のこと。里帰り出産で生まれた)と、話し出して泣き出した。
「エッ!何で?どうしたん」
と娘はうろたえていた。
私はもしやと思って聞いてみた。
「どこで待ってたの?」
そうしたら、こう答えた。
「お母さんのお腹の中で」
「そうなんや、お母さんのお腹の中で産んでくれるのを待ってたんやね?」
そういうと、傍まで来て、私の肩をトントンと叩いて、
「あーちゃんのお腹にも行ったんやで~」
えっ! ということは、あの時のもしかしたらお空に帰ってしまった赤ちゃんなのか?
「でも、アイちゃんはすぐにお空に帰ったよね」
「お空と違うよ!お母さんのお腹に行ったんやで」
えっ!そんなことってあるだろうか?

思い当たる節はあった。私は長男と長女の間に二人を流産している。その後、長女を身籠ったとき、不思議な夢を見た。それは女の子の赤ちゃんを産む夢で、その赤ちゃんが、生まれてすぐ苦しみ出して、女の子の赤ちゃんを産む夢だった。あの時の赤ちゃんが娘で、その赤ちゃんが生んだ赤ちゃんが孫のアイだったということだったのか? その時からなら、アイはずいぶんと長い間、娘のお腹の中で待っていたことになる。
「そりゃあ、長かったね。エーンてずっと泣いていたよね」
そのあとは三人で大号泣した。
しばらくして不思議な話はしないようになった。聞いてもはぐらかすようにして答えようとはしない。当然、自分からも話さなくなった。

体内記憶を話す子どもたちがいることを完全に信じているわけではない。でも、頭から否定することもできない。四歳の子が作り話をしたのかもしれない。それにしてもできた話だ。
私が生んであげることができなかった赤ちゃんのことは、心に瘡蓋になって残っている。どうしても生まれてきたかったんだ。そんな命だったなら、なおさら愛おしい。あの子が話した胎内記憶に私が一番救われているのかもしれない。

生まれてきてくれてありがとう。いっぱい笑わしてくれてありがとう。一緒に旅をしてくれてありがとう。応援させてくれてありがとう。まだまだあるけれど、元気に育ってくれていることにありがとう。
そして、娘たちへは生んで育ててくれてありがとう。

ただただ可愛かった幼児期から、子供期に入って一緒にできることがたくさん増えたことが何より嬉しかった。旅育をして、人生で大切なことをあ~ちゃんとの旅で学ぶ旅を続けたかったが、コロナで分断された。すでにもうすぐ十二歳だ。子供の成長は高齢者には残酷なほど速い。突然、可愛かったあの子の姿は消えて、先日は見知らぬ思春期の女の子が目の前に立っていた。そんな日が来るのは思っていたより早かった。

四歳の誕生日に自分が話したことを本人は忘れているだろうが、魂は覚えているはずだ。
「生まれて来てくれてありがとう」を伝えるときは今なのかもしれない。
この原稿に向かうのはこれで三度目になる。完成させるのはどうやら今のタイミングだったらしい。八年を経てやっと手を離れるのだ。


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