【連載】永遠のハルマヘラ ~生きて還ってくれてありがとう~ 第十三章 戦後、事業人として
事業人生と家庭人生(二十八歳~六十九歳)
一九四九年(昭和二十四年)四月十日 平野はつをと婚姻
一九五〇年(昭和二十五年)一月七日 長女優子出生
一九五二年(昭和二十七年)二月六日 次女紀美子出生
一九五四年(昭和二十九年)十二月二十四日 長男光弘出生
~一九五〇年代 千代田金物株式会社開業と倒産
阪神厨器有限会社開業と倒産
~一九六〇年代 阪神光商事株式会社開業
~一九七〇年代 岡山光商事株式会社開業と移譲
一九八〇年(昭和五十五年)八月 心筋梗塞に倒れる
~一九八〇年代 闘病の傍ら趣味三昧の日々
一九八八年(昭和六十三年)八月 阪神光商事株式会社自主廃業
一九八九年(平成元年)三月二十九日 心臓発作にて死亡
きょうだいが多くて貧しかった少年時代、丁稚奉公、満州義勇隊、兵器学校、そして戦争。わたしたちには想像ができない父の激動の人生。
戦後も、その後も激動の事業人生でした。
母から、商売第一で家庭的ではない人と刷り込まれました。
ほとんど仕事をしている姿しか思い出せません。
でも、アルバムを開くと正月の家族旅の写真がたくさんあります。
それ以上に仕事や仕事がらみの写真があって、そして、趣味三昧の姿もたくさん残っています。
おがくずストーブにロマンを求めて
写っているのは、1950年代、私が0歳から10歳ぐらいの頃まで、重宝されたという鋳物製のおがくずストーブである。戦後、石炭が不足した。復興のため建築ブームにあっておがくずはふんだんにあった。
そこに父は目を付けた。その燃焼効率を改善するために、ロストルというすのこを開発して、実用新案をとった。
戦後10年、それは売れに売れたらしい。笑いが止まらなかったんだろうな。
周りの子供達は綿の浴衣を着ているが私たちは絽の着物を着せられていた。最も羽振りの良かったときの話である。
今でもその柄は覚えている。最終的には母が夏布団に縫い直して、 随分と長く使用していたから。
1、2歳の頃、店の前で撮った写真にいつも映り込んでいたおがくずストーブはもっと肌理も荒くてザラザラとしていた。鉄がなくて砂をたくさん使っているからと聞かされていたような気がする。この写真に撮られているのは、 たぶん後の改良型のもののように思う。 幼い記憶でかなり曖昧ではあるが。
小学校の高学年になっていたと思う、たぶん見本市か何かに出品するために、みんなでワイワイと言いながら撮影していたように覚えている。
地方や、北国ではまだまだ使われていたのだろう。街では石炭ストーブや石油ストーブが台頭してきていた。 そのころの大阪の公立高校では北側の教室だけはストーブがあった。石炭ストーブだった。 昭和40年代の話である。戦後の復興は目覚ましく、気がつけばおがくずストーブの姿は街からも郷からも消えていた。 同時に鋳物製品もどんどん姿を消していた。
鋳物製品の出番がなくなった頃、「キューポラのある街」という映画が流行った。初々しい吉永小百合の主演の映画である。
「父さん
「キューポラというのは鉄を溶かして鋳物を作る溶解炉のことをいうんや、キューポラのある街というのは鋳物工場が多くある東京の川口で、そこが舞台なんやで」
と少し得意そうに嬉しそうに話していたよね。」
父は田舎から大阪に出て丁稚奉公をして、そして満州に夢を抱いて渡った。渡満前に写した写真には「実業家を志した17歳の頃」という父の字のキャプション がある。
満州には夢どころか荒涼たる大地しかなかったかもしれない。文字通りの臥薪嘗胆の開拓の日々。結局は進学するために帰国した。後々大きな土産となるものを携えて。
戦後いち早く、今ならば床暖房である満州のオンドルからヒントを得て、自分で引いた燃焼効率を上げるロストル(すのこ)の設計と製造で特許を取ることになる。
「父さん、やはり大陸にはロマンがあったらしいね。」
そうなんだ。何かやりたかったのだろう。だから、 あのハルマヘラで死ぬわけにはいかなかったんだ。「こんなところで死なれん!」どうしても生きて還ってやりたかったんだ。 山村から大阪に出たその時から何かを成すことを腹に抱えて離さなかったに違いない。
「父さん、戦争で命を拾って、戦後をなんとか生き延びたにもかかわらず、娘の私から見ても決して商売上手ではなかったよな」
経営センスがなかったわけではない。先を見る力もあった。例えば、家計経済の高度成長に目を付けた厨房製品の頒布会はどこにも先駆けていた。
事務能力にも長けていた。私の事務業務のお手本だったし、夜遅くまでよく働いた。少し人扱いは自分の思うようにはいかなかったかもしれない。誰もが自分と同じようにできるわけではない。そこは周りがカバーしていた。 にもかかわらず、二度までも会社を倒産させた。
体と才覚だけを資本として家族を養い、兄弟の面倒を見て実家を守る。油断をしたらたちまち明日はないのだ。一人の肩にいったい何人を背負っていたのだろうか。 それなのに、保証人の判をついてしまうのだ。救いを請われると放ってはおけなかった。
「父さん、口には出さなかったけれど、いや気が付いていなかったのかもしれないね」
父だけではない。あの頃、同じような人は少なくなかったのではないだろうか。
あの戦争で背負った罪悪感は並大抵のものではなかったはずだ。だがそんなものを抱えていてはあの戦後を乗り越えてなんていけない。
あの南方での戦いを戦友の死をないものにした。いろいろと思い出したくないことは忘れるに限る。しかし、潜在意識は忘れてくれない。
もう、自分だけ生き残るわけにはいかない。それが判を押させたのではないだろうか。
母はぼやくだけぼやいた。娘はきっちり聞いていた。いや、きっと聞かしていたのだろう。それを聞いて育った。そして、父のないことにした戦争で作った負い目という借金を払おうとしてしまう。そんなこと無理なのに。そんなことしなくていいのに。
話を戻そう。
父は、それでも何度も立ち直ったし、チャレンジも繰り返した。おがくずストーブは唯一無二の成功体験だったのかもしれない。成功という目標への再挑戦は死ぬまで、いや、60歳を目前にして心筋梗塞に倒れるまでは続いたのであろう。
「父さん、書いていて笑ってしまったよ。私の目標達成好きはどうやら父さん譲りだったようだ。なんでも引き継ぐにもほどがあるよ」
おがくずストーブはエコで理にかなっている。いつかまた形を変えて見直される日が来るのではないかと思っていたら、ここ数年、アウトドアなどで静かなブームになっているそうだ。インターネットで見ると何社かが販売している。形は様々でも、この横長型はない。個人で燃焼効率も含めていろいろ試していることを書いているブログもあった。
この時代に父が生きていたら一家言あることだろう。もしかしたら、父が追い求めた再挑戦する機会が回ってきたかもしれない。
「父さん、惜しかったね。ブームがもうちょっと早くやってきてくれたらよかったのにね。」
「そうしたら、商売下手だなんて娘に書かれずにすんだのに、汚名返上、名誉挽回できたやろにね。言っても詮無いけれど」
「でも、いいものは時代を超えてリピートされるよ。きっともっといいものになってね」