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一枚の自分史:私のチャレンジ~1年に1資格取得を目指して

バブル景気の崩壊から始まった1990年代、95年には阪神淡路大震災を経験した私の40代は一年に一資格取得を目指していました。

なぜそんなことをしようと思ったかというと、ちょうど40歳になったところでした、所用ができて工場に行った時のことだと覚えています。

工場の組長だったと思いますが、今は顔も名前も覚えていませんが、「久しいなあ~、ところであんた何歳になったんや?」とごくフレンドリーに聞かれました。

現場に行く時に気をつけていたことがありました。それは事務所にいる時の倍の笑顔を心がけることでした。現場、直接部門の人たちの中には、私たちのような間接部門に対して敵愾心むき出しの人が時々いました。いつもニコニコしていないと、どこから謂れのない攻撃を受けるとも限らなかったのです。

その時もニコニコと「はいっ!40になりました」と元気にお返事しました。返ってきたのは「 え~、そんなに歳いってるんか!」「そうか、もっと若いと思っとったわ!それやったらもう終わりやなあ」と耳を疑う言葉でした。「いや~、そんなん言わんといてくださいよ~」と卒なくかわしましが、どうなんでしょうか。

1990年、平成の世でも、女は一歳、歳をとるごとに値打ちが落ちると言ってはばからない旧態依然とした女性観が会社では堂々とまかり通っていたのです。今なら立派なセクハラ、パワハラです。

正直言って、くっそーと思いました。私は社内研修や自己啓発を推進する役職でもありました。ならば、この後は自己啓発して、一年に一つ資格を取って、見える形で値打ちを上げてやる!そう思って始めたのでした。
先輩には「 どんなに頑張ってもこの会社では女性は認められないからね」とも言われました。 どうしようもない口惜しさを抱えていました。

時に残業もこなし、小学校高学年、中学生の母親業と家事、PTA や地域の活動にとそれは忙しい世代でした。

家事を効率的にやりくりし、食堂テーブルに座って勉強する時間を毎日工面しました。やがて子供たちも食堂テーブルで宿題や勉強を始めました。子供達にはちゃんとした学習机があるのにです。私にはないので仕方なく、さっさと夕食を片付けて勉強していました。ちょうどこの10年は 子ども達も中高生で将来に向けて勉強をする時期にあたっていました。何よりよかったのは、親には背を向けがちな反抗期の子ども達と同じように目標を持って共に学べる幸せな時間を持てたことでした。

あまり無理せず、ちょっとだけ自学をしたら取れそうな資格を選んでいたので、大して仕事に役立つわけではありませんでした。自己満足の世界でしたが、目的をもって目標に向かって学ぶことが楽しくて、なぜ学生時代あんなに勉強しなかったのかと思うぐらいでした。

そんな十年を経て、 五十歳になった時、やはり違うなと思ったのです。いくら履歴書にたくさん書ける資格を増やしても、 私という人間の値打ちはそんなところにはない。五十代は魂を磨こうと決めました。

決めたからといってうまくいくわけではありませんでした。リストラが始まって、それまで天職だと思ってやっていた人事の仕事はお別れのための辛い仕事となりました。

リストラが終わってからは転職を視野に入れた本気の資格勉強をすることになりました。リストラは辞めるも地獄、残るも地獄でした。ギリギリまで削った人員で業務を勤めてへとへとになって帰る日々、土日はキャリアカウンセラー資格講座の受講で休みはありませんでした。それでも学ぶことが楽しい。私は目標に向かうプロセスがとても好きだったのです。

意味もなく取得した資格でしたが、定年退職後に陽の目を見ることになりました。あの日々があったから、実りある 六十代でのチャレンジがあり、今、七十代でのチャレンジがあります。

一つ一つのプロセスゴールを楽しむ。本気のチャレンジはワクワクする。最高の人生の醍醐味となっています。

写真は終わりやなと言われた40歳の私です。


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