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自分の身体って不思議。

〔紹介書籍〕鷲田清一(2005)『ちぐはぐな身体―ファッションって何?』筑摩書房.

私たちは自分の身体についてどれだけ知っているでしょうか。自分の身体を、鏡や写真を通して間接的に見たことがあっても直接見たことはありません。なのに、ひげを剃ったり、最近ちょっと太ったかな?なんてダイエットを決意したりと、他人からどうみられるかを気にします。この本は私たちの身体についてファッションを通して考えた一冊です。
 私たちは傷ができて痛いと感じたり、何かに触れて初めて自分の身体を「イメージ」します。そしてその身体の「イメージ」を補っているのが日常的に着ている服だと著者は言います(p12~14「〈像〉を補強する―からだを包囲する」)。でも、フリルのついたかわいい服が着たいとか、今日はカジュアルな服を着ようとか身体のイメージを補う服は表現という役割も担うようになりました。この本の中でその表現に初めて触れるのは制服であると著者は言っています(p49~51「社会の生きた皮膚―ひとはいつ服を着はじめるか?」)。制服はその学校の所属を意味し、着方のルールは厳密に決められています。スカートの丈は膝まで、ボタンはきちんと上まで止めるとか。でも、いつしかそれが息苦しくなってきて、ルール違反をして着崩す。そんな経験ありませんか?そもそも制服は貴族階級の人々が権威を示すものとして用い、階級差をはっきりさせることで貴族階級の自由さを表現していました(p70「自由の制服」)。自由を持つはずなのに不自由な感覚を持ってしまうなんて、おかしな話です。それに、傍から見たら不良だとか悪いイメージで見られてしまうし、怒られるし、良いことなんてないのに何でそんなことをするのでしょう(p51~53「服を着くずす―ファッションの発端」)。大人になって不自由な制服から解き放たれたとしても、わざと締め付けるような服や袖や裾の長い服を着たりすることも(p85~90「だぶだぶの服」)。決して機能的ではないのにその服を好き好んで着る。さらに痛い思いをしてまでタトゥーやピアスで自分の身体に傷をつける(p146~150「タトゥーとパック」)。どうしてでしょう。
 この本で著者はそんな私たちの身体と心のちぐはぐさを身近な服というテーマにおいて論じています。そしてそのちぐはぐさをモードの場で表現した80,90年代の日本人デザイナーたちの「モードの解体」への挑戦についても論じられています(p166~170「服を解体する服―三宅一生・川久保玲・山本耀司の仕事」)。これまで「美しさ」を求めてきたモードの世界に、日本人デザイナーたちはどんな風を吹かせたのか。ファッションに興味がある人はもちろんのこと、ファッションには興味がないという人でも自分の身体について考えることのできる非常に身近な一冊です。ぜひ、一度読んでみてはいかかでしょう。なんだか、自分の身体っておかしなものだなと感じるかもしれません。(I.K)

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