改訂版:DVD版「祈りと怪物 ~ウィルヴィルの三姉妹~」についての戯言『祈りは善なのか 怪物は悪なのか』
この文章は以前投稿した文章に手を加えて改稿したものです。
重なっている部分もありますが、ご容赦を。
今年のGWにやっておきたかったことのひとつに、2012年12月に上演されたケラリーノ・サンドロヴィッチ氏作・演出の舞台「祈りと怪物 ~ウィルヴィルの三姉妹~ -KERA Version-」の、正規販売版DVDの再見があった。
正規販売版、とは、別に海賊版を買ったという意味ではなく、2013年にNHK-BSで放送されて、それを録画したDVDを見まくっていた。
だけど、公共の電波で、特にNHKで放送されたものなので、放送にあまり適さない部分(差別的な言葉と性的描写)がカットされていたので、舞台上演記録の映像としてはノーカット版が正規販売版としてDVDで発売…ということで、購入した。
2014年の5月発売。
収録されている公演は2012年12月19日のもの。
俺は実際の舞台を、当時やってた仕事の年末調整をしつつ、28日の公演を観に行きました。
全3幕芝居の休憩込みで4時間10分、DVDも本編だけで3時間50分ある。
まず、この作品の制作発表がなされたとき、俺はいたく感動した。
KERAさんのツイッターの文章を引用させていただくと…
『「祈りと怪物〜ウィルヴィルの三姉妹〜」の発想は、ガルシア・マルケスが「カラマーゾフの兄弟」みたいなものを書いたらどんなものになるか、というのが発端。』
…なんか、雷が落ちたような気がした。
好きな作家同士の、好きな作品だけど、名作だし古典だし文豪だしで、それを組み合わせて、自分のオリジナルを創る…そしてそこに作家としての自分のプライドと責任が加わる。
「そうか、作家は何書いても良いんだ、どう考えても良いんだ…」と思った。
もちろん、ある種の傲慢さと、作家としてのプライド、何より制作者としての技量…それが兼ね備わった人じゃなきゃダメだけどね。
当時抱えてた問題のせいで、記憶があいまいなのだけど…。
実際の舞台は感動と物足りなさ、両方があった舞台だった。
当時はなかなかその正体がつかめなかったのだけど…。
2013年の後半に長期休養をしていて、この作品の戯曲本を何遍となく読み返した。KERAさんの戯曲の中でも、一番好きだった「カラフルメリィでオハヨ ~いつもの軽い致命傷の朝~」より読んだ。
この戯曲本はKERAさんが書き上げた台本のノーカット版+αで、KERAバージョンの延長線としてほしいとのこと。
あ、知らない人のために注釈しておくと、この「祈りと怪物」という作品は、Bunkamuraのシアター・コクーンで2012年~13年にかけて、KERAさん自身の演出バージョンを12月に、蜷川幸雄演出バージョンを1月に上演する、演出対決として企画興行されたものです。
蜷川版は映像化されていないので、チケットが取れなかった俺は観られていない。
なので、この文章は、あくまで『ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出作品』について書きます。
まずはザザッと、粗筋を…。
…。
舞台はウィルヴィルという名前を持つ、架空の島の架空の町。
そこは横暴な権力者ドン・ガラスが支配している。ガラスの祖父は、息子(=ガラスの父)が酷い目にあった時に加害者たちに制裁を加え、その家族には焼印を押し、以後永劫に身分を1つ下の「ヒヨリ」と呼ばれる階級に仕立てた。
ガラスは執事長のヤルゲンと共に夜毎強奪を繰り返し、市民を暴力で支配していた。
ガラスには3人の娘がいる。
長女・バララは町の教会の司教・グンナルと相思相愛でありながら正直になれない関係を続けている。そこには、ガラスの妻が教会の熱心な信者であったが早くに逝去した…というガラスの教会への、神への侮蔑がある。
二女・テンは港に流れ着いた漂流者・ヤンにぞっこんである。だが、このヤンもただの男ではない。密航者であり、寄港していた船の船員全員を殺し、三姉妹の祖母、ガラスの母親ジャムジャムジャーラを海に突き落として助け、偶然を装ってこの三姉妹に取り入った。
三女・マチケは奔放でワガママな性格であり、動物園に勤務しているトビーアスに恋をするも、素直ではいない。ガラスはその様子からトビーアスの兄貴分の友人で教会の使徒のパブロとの関係である、と勘違いを起こしている。因みにトビーアスの祖母はジャムジャムジャーラから恋人を奪われたドンドンダーラである。
パブロは、貧窮している事態に甘んじているトビーアスと違い、なにか大きな「強い」男になることを願っている。恩師である教師のペラーヨが地下組織と共にガラスの失墜計画を工作していることを知れば加入を申し出、断られてしまうと、運命的にトビーアスと共にガラスの手下になると、今度はペラーヨの情報を売る。
ペラーヨはガラスの後妻であるエレミヤとつながっている。しかし、お互いに感情がすれ違い、上手くはいかない。
エレミヤは過去にガラスが他の権力者から財産ごと奪い取られてやってきた。その時に一緒にやってきたメイド長のメメは、元コック長で今はガラスの手下のアリストと死んでしまった息子への思いを断ち切れない。
アリストに連れられてスーツを仕立てに行った仕立屋で、主人のローケの娘、レティーシャにパブロは惚れこんでしまう。
町に錬金術師を名乗るインチキな興行主のダンダブールとその助手で白痴のパキオテが、司祭グンナルを取りこんで、万能薬という名のパキオテのまじないがかかったライ麦粉を売りさばく…。
…。
と、ざっとここまで書いて2幕目まで。
3幕目まで書いてたら疲れてしまう。
解説していく中で3幕目の内容も書くけど。
モチーフとしてはガルシア=マルケスmeets「カラマーゾフの兄弟」×「三人姉妹」。そこにロバート・アルトマンに代表される群像劇、ヴィジュアルイメージはイタリアンで、登場人物名はラテンアメリカで…物語るはギリシャ悲劇のコロスたち。
俺の中では、この作品は二律背反している。
大好きだけど、飽きてしまう。
冗長で長すぎるけど、あっという間。
目標であり反面教師。
例えば。
19人も主要人物がいるのに、コロスの場面以外で一同が、少なくとも十人くらいの人物が一堂に会する場面がない。カタルシスが弱い。それはギリシャ悲劇をモチーフにした演出を取り入れた演出で、わざとクライマックスをヴィジュアルではなく「報告者」の語りで見せる「冒険」に出ていたりするからでもあるんだけど。
この物語全体も、ウィルヴィルという、町の物語だけど、俺には町の描写が弱いように思えて仕方ない。
戯曲の冒頭のト書きには「この町唯一の教会、娼館を兼ねた酒場、映画館、肉屋、床屋、靴屋等が並ぶ」という魅力的な描写があるにもかかわらず、本編ではほとんど行かされていないのが原因のひとつかもしれない。
主題の「祈り」と「怪物」について。
ウィルヴィルを崩壊へと導くのは人びとの「祈り」である。
ウィルヴィルを破滅へと導いた一つの原因である白痴・パキオテの「まじない」(=祈り)のかかったライ麦粉を、「薬」としてダンダブールは売りさばく。
「祈り」をすることを取り戻した人たちにはライ麦粉は「薬」になった。
しかし、パキオテが衰弱し、まじないの効力(=祈りの力)が無くなるにつれ、祈った分だけ、人びとは「怪物」と化して死んでいく。
幼い子供を亡くしたアリストとメメ夫婦は祈りをささげてパキオテのまじないを受ける。失くした子供に再会し、祈りを忘れ、パキオテを拒絶したとき、「祈り」は「怪物」に変わる。
「祈り」をつかさどる司祭のグンナルは薬がライ麦粉であることを知っていた。しかし、次第にライ麦粉を薬であると思うようになり、「祈り」を捨てた瞬間、「怪物」となり、婚約者のバララに「殺してもらう」。
それだけではない。
この芝居の要所要所に「祈り」と「怪物」の問題がちりばめられている。
町で「怪物」扱いされているドン・ガラスは決して祈ることをしない。
人間を人間とも思わない扱いをするが、毛虫や犬には最大限の愛情(=暴力・権力)を使う。
そこにあるのは「エイモス家の掟」だけであり、祈りではない。
同じく祈らない人間として、仕立屋のローケがいる。
KERAバージョンのローケ役の役者はコロスの場面において「報告者」を演じる。その報告者によって報告されるのは、娘のレティーシャが盲目となったパブロと街を出ようとし、「祈り」のために「怪物」と化した人々に喰い殺される。そしてローケはそれを、ヒヨリに義務付けられた腕章のみを見つける形で知ってしまう。
流れ者・ヤンはヒヨリであった母親と自分を海に投げ落とした父親である男を探し、邪悪とも言える呪術に「祈り」、呪術師の言い残した順番通りにウィルヴィルの人たちを殺し身体の一部を持ち去り、「祈り」をささげ、その父親(=彼にとっての「怪物」)が「祈り」をしないドン・ガラスであることを知り、それ故にテンに撃ち殺される。
ラスト、「祈り」の入ったライ麦粉を呑んだがために三人姉妹は「怪物」によって石にされてしまう。この展開を急激な、唐突な展開にも感じたが、伏線は4時間かけて張ってあった訳だし、今回再見して、納得のいく展開だった。
ウィルヴィルの人々にとって「祈り」をしなかった「怪物」ガラスと、「祈り」をしなかった仕立屋が「祈り」の主たる司祭となって登場し、生き残るラスト。
複雑に絡んだ人間関係だが、混乱することなく見折ることが出来るのは、ストーリーテラーとしてのKERAさんの腕の見せ所だが、反面、モチーフであったガルシア=マルケス(マジック・リアリズム)や「カラマーゾフの兄弟」での信仰心の問題、群像劇としてのカタルシスが薄いのも確かであり、表層をなぞっただけ…と取られても仕方ない部分ではある。
また、蜷川演出をにらんでなのか、全体にギリシア悲劇の演出が取りれられているのも、賛否分かれるところと思う。クライマックスは報告者により言葉で語られ、ヴィジュアル化されない…という、演劇でしか出来ない表現方法が出てくるが、それが逆にこちら側への大きなインパクトの投げかけとはならなかったのも確か。
全ての要素が有機的に絡みあい、役の大小関係なくキチンと全員が舞台上で生き退場する様が濃密に書かれている。その分散漫になり薄味になっているのも事実。
濃い味の薄味。
そんな印象が拭い去ることが出来ない、3幕4時間の芝居。
登場人物が個性的だけど、ステレオタイプにも感じる。
深くて浅い。
4時間が短くて長い。
それでも。
俺はこんな巨大な作品を書きたい。
やるなら、ギリシャ悲劇じゃなくて、パイソネスクでやるけど。
「祈り」は平和をもたらし、「怪物」は不幸をもたらす。
しかし「祈り」と「怪物」、その両者でさえ、二律背反した、双子のような存在だ、というのがこの芝居のキモだと思う。このキモを読み取るか取らないかで、評価は割れるんじゃないだろうか。
俺個人にとっては、ひとつの指針となる作品であり、欠点の多い教科書のようなものに感じている
賛否両論あると思うし、俺の中でも賛否が分かれる、二律していく舞台作品。今回、改めて、その感を強くした。
これにて、このDVDへの感想を終えたいと思います。
ちょいちょい手を入れるかもだけどね。
それくらい魅力的で刺激的な舞台作品だと思っているんだよ。
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