水都 その景観と構成、美術表象―近現代「都市芸術」以前の江戸東京、ヴェネツィアを事例として―(B.A.)
「都市」とはなんだろうか。
西洋近現代絵画の典型的な主題のひとつに「都市」がある。美術史上では19世紀後半、 ボードリヤール(Jean Baudrillard, 1929-2007) の「現代性(モデルニテ)」という言葉に集約されるような近代的美意識の勃興により脚光を浴びた。
都市を主題とする絵画が「近代」以前に存在しなかったわけではない。例えば、17-18世紀ヴェネツィアに生きた画家カナレット(Giovanni Antonio Canal, 1697-1768) はヴェドゥータ(都市景観画) を得意として、ヴェネツィアの風景を今に伝えているし、西洋の「美術」 に相当する概念をもたなかった近世日本でも、多数の版画が大都市江戸やそこに住む人々、それを支えた水運のありようを活写している。
ヴェネツィアと江戸は「水の都市」であることが共通する。水、都市、人間の関係性は地域によって異なるが、都市を歴史的視座から解読しようとする都市論の立場から、近年では 「水都学」と銘打たれた比較検討がなされている。
近代以前以後の都市は、量的質的に異なるものである。「ある全体を構成していた部分がそれぞれ自立性を獲得する(1)」とは、近代に顕著な傾向であり、個別存在であろうとする建築物は、都市を構成する体系の一部分でありながら、他の部分や体系と対立する。このような二面性を孕むことは個別としての自壊を意味するが、ゲオルク・ジンメル(Georg Simmel, 1858-1918) によれば芸術作品は「芸術作品の二重の立場(2)」をもつゆえ解体しない。ジンメルによれば、ヴェネツィアはそのような構造をもつ象徴的存在だという。
何を以て都市を分析したことになるのか。絵画から都市のありように迫ることは可能だろうか。都市とは、建築物の集合体ではない。言葉や記号に還元できるものの集合体ではない。捉えどころのない空間を含むものだ。まして、人の手を介して作為的に成立する絵画は、 写真のように「自然や世界のイメージを直接」写し取ったものではなく、都市そのものからは程遠い。
ガダマー(Hans-Georg Gadamer, 1900-2002)『真理と方法』以降の受容美学においては、 芸術現象を作家ひとりの産物とは見做さない(3)。作品が将来の鑑賞者によって具体化されるプロセスを芸術現象の中に含む。作品「内」にある芸術-鑑賞者という図式を成立させる相互作用、対象-作家という図式を成立させたときの作品「外」相互作用、どちらも受容美学による作品分析の方法論となりうる。 都市-画家-絵画-鑑賞者の相互作用をみとめ、芸術現象を検討・分析することは「都市」の分析になり得るのではないか。
本稿ではまず、主に建築学、都市史の学範に基づいて成立した「都市論」の中から、水が都市形成に大きな役割を果たした「水都」に着目して比較検討する「水都学」アプローチが生まれてきた現状を確認する。歴史的視座を重んじてきた都市論は研究を多様化・深化させ、近年では絵画を歴史史料に含めたアプローチが試みられるにいたった。「江戸東京」「ヴェネツィア」を対象とする先行研究を参照したのち、近現代以前の絵画を史料として、 描かれた前述二都市の分析を試みる。さらには「水都」を描いた絵画が、洋の東西を超えて相互に影響しあい、近現代的価値観に依る「都市」主題に接続されていったことを紹介し、 絵画を起点として都市を考察することの可能性を示す。
小田部胤久『西洋美学史』p.145
同上
芸術家の意図「が」作品解釈を左右するか、という問いは、さらに多くの問題にさらに分派する。ロバート・ステッカーは『分析美学入門』の中で「理想的観賞者」の仮定のもと(1)作家の意図を同定することは、芸術解釈のひとつの本来的、かつ、中心的な目的なのか (2)作家の意図は、芸術作品の意味を部分的に規定するのか という二つの問いを取り上げる(p.229-254)。これらの問いに肯定的に答えるとしても、芸術現象に鑑賞者をふくめる立場はありうる。
2021.12 執筆
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