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私の1.17

阪神淡路大震災が起こった時、私は一人暮らしの学生でした。あれから26年が経って記憶も薄れていく中、覚えていることだけでも書き残したいなと急に思い立って、この記事を書いています。

Wikipediaによると地震があったのは朝の5時46分。眠っていた私は激しい揺れで目を覚ましました。揺れていた時間は15秒ほどだったそうです。まるで肩を掴んでガクガクと揺さぶられているようだったことを覚えています。よっぽど怖かったのでしょう、揺れが収まって最初にしたことは実家への電話でした。

「怖い。逃げた方がいいのかな」

成人式も済ませたいい大人(と思っていました)が、最初に求めたのが親の指示というのが微笑ましい。と同時にラッキーな行動でもありました。その電話は奇跡的に繋がりましたが、ご存知の通り、その後しばらく電話は繋がらなくなりましたから。少なくとも自分の無事を伝え、実家の無事を確認することができました。今なら震災伝言板もありますが、当時はそんな物もなく、もしもあの時電話できていなかったら、死ぬほど親を心配させていたでしょう。

部屋の中はそもそも物が少なかったので、ワンルームマンションの狭い部屋にパッと見被害はありません。電子レンジの台の位置が動いたくらい。でも、電話で話しているうちに窓の外が騒がしくなって、「大丈夫ですかぁ!?」という人の声が聞こえてきました。住んでいたのはマンションの1階だったので、外はすぐ通りになってたのです。

「なんか、人が来ているから一回切るね」

電話を切って、窓のところに行ってびっくり。両側から押しつぶれたように窓枠がゆがんで、鍵がかからなくなっていたのです。窓の外には数人のご近所さん。しきりに大丈夫かと心配しています。訳がわからないまま、一旦外に出ようと玄関に行ってまたびっくり。地震で歪んだ玄関のドアは開かなくなっていました。

とにかく靴を履いて、閉まらなくなった窓から外に出て、振り返って見たマンションは、上から押し付けられたように1階部分が平行四辺形に歪んでいました。そりゃ、窓もドアもおかしくなるはず。部屋の中に異常がなかったのが不思議なくらいです。外壁が剥がれ落ちて、窓の外には瓦礫の山ができていました。

マンションからわらわらと人が出てきます。お隣さんは窓もドアも開かなくなったようで、窓を割って出てきました。あたりを見渡してみると、どうやら壊れたのはうちのマンションだけらしい。ちょっと恥ずかしくなったのを覚えています。それと同時に、瓦礫の下敷きになってつぶれている自転車を見て、「死んでいたっておかしくなかったんだ」と痛烈に感じました。もちろんそんなことを感じたのは生まれて初めて。何故か頭の中を「命あっての物種」という言葉がお経のようにぐるぐる回りはじめました。

無事です。家の中も大丈夫です。集まったご近所さんにそう言って、再び窓から家の中に戻りました。その後の記憶はしばらくありません。朝ごはんはどうしたのでしょう。たぶん、もう一度実家に電話をしたのだと思います。通じなかったはずですが。テレビのニュースを見たような記憶があるので、電気は通じていいたのでしょうか。

次に記憶があるのは、9時前。研究室の輪読会があるから、と荷物を持って歩いて大学に向かいました。家が壊れてるのに学校に行くなんて、今思えば頭がどうかしているとしか思えませんが、その時は当然の行動でした。学校に向かう道すがら、どうやら被害の大きい場所とそうでない場所がパッチワークのようになっていることがわかってきます。ウチはたまたま運が悪かったのでしょう。大学も不運な立地だったらしく、グランドに地割れができていました。赤っぽい土がパカっと開いて、とてもシュールな光景(そういえば、あの地割れは誰かが埋めたのでしょうか)。それを見て、ああ、大地というものは、マグマというホットミルクの上に張った薄い膜みたいなものなんだなぁ、と思ったのを覚えています。それまで揺るぎないと信じていたものが、そうでないことを思い知って、心細いような、開き直ったような気持ちになりました。

朝から輪読会の日なのに、研究室には誰も来ていませんでした。当たり前です。あれだけの地震があって、電車だって止まっているのですから。部屋の中はもちろん滅茶苦茶。机に積まれていた本や論文が床一面に広がっています。電力を失って、フリーザーなどいろんな機器のアラームが鳴り響き、割れた試薬瓶から漏れたにおいが立ち込めていました。とりあえず今日は輪読会なさそうだからと、戸締りもできず心配な自宅にいったん戻ることにしました。

さあ、どうしよう。

親のアドバイスを貰おうにも電話は通じません。交通も死んでいたので実家に帰ることもできません。マンションは壊れてもう住めないのは明らか。いったい私はどうしたらいいんだろう。今まで困ったときには親や先生といった「大人」に相談すればよかった。でも、今は誰の手も届かない場所で、自力で対処しなければなりません。立派な大人のつもりでいたけれど、大人の助けがなければ途方に暮れてしまう。自分はなんとお子様なんだろう、と思い知りました。窓を割って出てきたお隣さんのところには、恋人が駆けつけて片付けを手伝っていました。ああ、持つべきものは恋人であったか。しかし時すでに遅し、です。

子供の浅知恵でも、正解じゃなくても、とにかく自分でなんとかしなくちゃいけません。一番の問題は戸締りができないことだ、と思いました。泥棒にもっていかれたら困るものを、まずはどこかに動かさなくちゃ。でも、どこに?

宅急便で実家に送る、が思いついた唯一の答えでした。そうとなったら段ボールの調達です。ちょうどお昼も近かったので、段ボールとお昼ごはんを手に入れるため、近所のコンビニに向かいました。そして、すっかり空っぽになった棚に驚かされます。災害で物流が止まればお店から商品が消える、そんな単純なことも知らないのんびりした学生だったのです。何とかかろうじて売れ残っていたパンを買うことができました。

平行四辺形になった自宅は、大きな余震が来れば本当に潰れてしまうかもしれません。靴を履いたまま荷造り作業し、立ったままパンを齧り、余震が来るたびに窓から外に飛び出しました。荷造りした段ボールを宅急便集荷をしていた近所の商店に持ち込んで、集荷が再開するまで置いてもらえるようお願いしました。うちのマンションが壊れたのはご近所周知の事実。気の毒な学生さんの頼みということで、お店の方も引き取ってくださいました。

持っていかれたら困るものはとりあえずお店に預け、残った貴重品はオーディオセットですが、さすがに重くて持ち運べません。そこで、持っていかれても仕方ないけれど、できれば持っていかれたくない鍋やヤカンを研究室に移動することにしました。研究室に行くと、朝とは打って変わって皆んながいました。鍋やヤカンをもって登校した私を見て皆んな笑っていましたが、私は安心で腰が抜ける思いでした。たぶん、腰が抜けたのはあれが生まれて初めてです。自宅が壊れたことを伝えると、先生が車を出して、オーディオセットを友人の家に運んでくれることになりました。その晩はその友人の家に泊めてもらい、晩ごはんをご馳走になりました。ようやく靴を脱いで、横になることができて、人心地がつくってこういうことかと思ったものです。

これがささやかだけど大事な私の1.17の記憶です。命は当たり前じゃないこと、大地でさえ確固たるものではないこと、自分はとんだお子様であること。今まで信じていた前提をひっくり返されて、自分の限界を思い知らされて、それでも何とか一人で切り抜けることができたことは、逆に自信に繋がっているような気がします。あれから26年。まだ頭の中はお子様だけど、なんとか生きてます。

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