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前略 市長候補殿 一通目

はじめに

私が大好きな本の一冊に井上ひさしの「ボローニャ紀行」という本がある。この本を読めば誰もがボローニャという町を一度は訪れたいと思うという言う意味では確かに紀行文であるが、この本の真の姿はまちづくりの書であると私は思う。興味のある方は読んでみるといいだろう。

この本の中に「市長の作り方」という章がある。この本が書かれてからちょうど10年が経っており今もこのしきたりが続いているのかどうかは定かではないが、この章には市長選挙そのものではなく市長候補にどのようにしてまちの未来を託していくかについて書かれている。市長候補(予定者)の討論会に集まった人たちから様々な熱い質問が飛び、それに何とか応えようとする大集会に圧倒されていた井上ひさしに通訳は以下のように説明する。

「市民たちはいま、候補者の質を見きわめようとしているんです。同時に候補者を鍛えようともしているんですね。このような市民集会は、市長選までに何十回となく持たれるでしょう。そのたびに候補者は市長にふさわしくなっていくわけです。なによりも、現市長批判派は右から左までいろいろですから、こういう集会の討論を通して連合していくわけです。そうして集会で一致するところを見つけては、それを公約にしていく、、、」

私はこれを読んで衝撃を受けた。この本を書くにあたって井上ひさしに同行した宮本茂樹さんから、井上ひさしが「イタリアは国貧しけれども民豊なり、日本は国豊かなれども民貧しけりですね、、、」とつぶやいていたと伺った。私が衝撃を受けたのは、経済的指標では測ることができない豊かさを守るために「討論する」イタリア人の熱意をここに感じたからだ。

私は選挙に敗れ議員ではなくなったが、とても幸運な議員生活を送ることができたと感じている。それは私のことを鍛えてくれる仲間がいたからだ。彼ら彼女らは常に私に問い続けてくれた
『それで七尾の能登の未来を明るく照らすことができるのか?』と。
緊張感をもって仕事を続けることができたのはそのおかげだと思う。改めて感謝を申し上げたい。ありがとう。

さて、私に今できることは何かを考えてみたとき、私の経験から導かれる市政のテーマについて明らかにし、可能であればその解決策の私案をリーダーとなる人やその周囲の人に届けることではないかと考えた。そしてそれを始めるタイミングは今なのではないかと思う。

これを書いたところで何が変わるわけでもないかもしれないが、架空のまちN市の市長候補へ手紙を書くという形式で期間限定の連載でもしてみることにする。

そこに愛はありますか?

そのまちのリーダーがそのまちの誰よりも自分のまちを愛していること。それはリーダーが行政サービスを通じて市民を幸福にするための第一条件である。

国の機関のある担当者から聞いたことがある。彼が言うには「様々な首長が要望陳情に来ます。これはいいなという提案を持ってくる人は、その提案の効果や実現性について話をする前に自分のまちがいかに素晴らしいかという話を熱く語るんです。その人が持ってくる提案自体も良いのですが、結果としてそういう人が先頭に立ってやること自体が成功の秘訣なんですよ。やっぱり地元愛ですね。」だそうだ。それはそうだろう。

「愛なんてばかばかしい。行政はテクニカルなものだ」という批判もあるかもしれない。しかしそれは間違いだ。テクニカルな課題とは「論理、確率、統計」によって計算可能な課題のことをいい、そんなものでまちづくりがうまくいくならAIに市長を任せた方がいい。論理と確立と統計だけで測ることができない最大のテーマの一つが人々の幸福な暮らしであり、それと向き合うにあたっては大きな愛が必要なのだ。

故郷を愛するとはすべての市民を愛することである。市民とは住民票のある人だけでなく住民の先祖やこれから生まれてくる子孫も含まれる。先人が築き上げたものすべてを愛し、自分の意見やビジョンに反対する人までも愛し、そして未来の子どもたちに愛を差し向ける。これが市民を愛するということだ。

故郷を愛するとはまちの風土を愛するということである。どんなに不便なところであろうとそこに暮らす人たちが大切にしてきたものがある。人を愛するということはその人が大切にしているものを愛するということであり、その実態は風土として現れる。この地の自然、歴史が織りなす風土を誰よりも愛していなければならない。

故郷を愛するとは人々の生業を愛するということである。愛すべきは仕事(しごと)ではなく生業(なりわい)である。人は生活の糧を得るためだけに働くのではなく、自己表現や自己実現の手段として働いてもいる。働くことは生きることそのものである。”ここでもできる仕事”を見つけるのではなく、”ここでしかできない仕事”は何かを考え、生み出すことが愛のある産業振興なのだ。

愛は小さな声を聴く力となる

N市に住む約5万人すべての声を直接聞くことは不可能だろう。しかし、まちを歩き、限られた機会であっても人々と対話をしていくとき、そこに愛があれば直接聞こえない小さな声が聞こえてくる。その声の中にこそ本当の課題がある。本当に困っている人たちの声はいつも小さい。

繰り返し言う。愛があれば小さな声が聞こえる。愛なき者には絶対に聞こえない。絶対にだ。

もしも自分の周囲の支援者の声しか聞こえないならば愛が足りていないということだ。これは全ての政治家に言える。

政治の道に進む者はこの声を聴くために立ち上がっているはずなのだ。既得権益にあずかりたいとか功名心を満たしたいとかいう者でなければ、この声を聴く力こそが政治家の資質であり、その声こそが政治活動の原動力ではないか。しかし油断するとその声は聞こえなくなる。支援者の大きな声だけしか聞こえなくなり、政治家と支援者の共犯関係が成り立った時、政治が無力で腐敗したものになっていくことを私たちは日々見せられている。

N市においては二人の候補者による選挙となるそうだ。私も出馬を決断し闘うにあたっては相当の覚悟が必要であった。だから候補者となる方にはまずもってその決断に対して敬意を払うものである。もちろんこれから何通も一方通行の手紙を書いていろいろなことを伺っていきたいけれど、やっぱり初めに聞いておきたいのはこのことだ。

あなたはだれよりもN市を愛していますか?

最後に

ボローニャでは市長候補を育てるために市民が様々な取り組みをしている。そのことが魅力あるまちづくりの重要な活動となっている。N市のみなさん、どうか無関心はやめましょう。

政治に無関心でいることは出来ても無関係でいることは出来ないからです。

未来の市民が「このまちにうまれてよかった」と感謝してくれるようなN市になるために少しでも役に立てることを祈って、お手紙を書き始めます。

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