見出し画像

22世紀を見る君たちへ 平田オリザ

Reading at Home vol.13は少女漫画チックな表紙のこの本です。

タイトルと中身が違うんじゃないだろうか?

はじめに重要なことを書いておくと、この表紙のような高校生がこの本を読んでも何の役にも立ちません。この本は大学入試制度改革の現状にたいする批評と著者の考える理想の入試のカタチについて書かれた本だからです。

おそらく、私がたまたま塾講師という受験に関係する人間であったために最後まで読むことができただけで、教育関係者以外の方がこのタイトルに釣られてこの本を買ってしまったら多分怒っちゃうと思います。

サブタイトルの『これからを生きるための「練習問題」』というフレーズもしっくりきませんでした。著者が”いいね”と感じる入試問題や、批評の対象となっている入試問題のサンプルとその解説的なものが時々出てくるにすぎません。僭越なものいいかもしれませんが、私にとっては『はずれ』に相当する本でした。

とはいえ、二点ばかり読んでよかったと感じる点もありあましたのでそれについて書いてみたいと思います。

その1 佐藤優の『君たちが忘れてはいけないこと』の次に読んでよかった

『22世紀を見る君たちへ』の中で著者の平田オリザを日本の大学にはもっと多様性が必要であり、そのために入試も多様な人材を受け入れるための形式に変化していかなければならないと主張します。このことを全面的に否定する人はあまりいないとは思いますが、わたしは「多様性」という言葉自体がこの本の中で都合よくつかわれているような気がしました。(多様性という言葉を都合よく使うことについては自分も反省させられた)

たしかにこれまでの教育は詰込みという言葉に象徴されるように「画一的」であったと思います。そしてその傾向はいまも強く存在しています。このことによる弊害があるのは事実だと思わなくもないのですが、だからと言って子どもたちの多様性を伸ばしそれを測ることは容易ではありません。
私の見解では、学校教育において子どもの多様性を伸ばすことができるかどうかのカギはひとえに1クラスの人数によって決まります。1クラスの人数が少なければ全国で同じ教科書を使っていたとしても子どもの多様性を尊重することができるし、一クラスの人数が多ければオリジナル教材やお理事なくカリキュラムを用いても画一性を免れることは出来ないでしょう。そして、そこが変わらないのに大学入試で多様性を問おうとしてもそれは受験生の伸びしろを測ることは出来ないのではないかと思います。
結果として多様性の尊重という言い訳のもとで、高等教育を受けるに不十分な能力や学力しか持たない大学生を生んでしまうのではないかと思います。そしてそれは逆説的ですが、教養(リベラルアーツ)を重視する教育を実現する方向性とは反対方向に大学が進んでしまうことになると私は考えるのです。

佐藤優が言うように大学入試は単に知識を詰め込むだけでなく「総合力」とか「マネジメント」の能力を高めるという効果があります。さらに言うと、今回の休校でリモート学習が注目されるなど新しいツールの活用で、学び方と合わせて働き方や生き方の方向性を学ぶことができる点においても有用であると私は思います。
自然や芸術について学ぶためにはある程度教材が準備できるものの、人間そのものについて学ぶためには文学や哲学に接する必要があり、どこまでを基礎学力と定義するかは難しいですが、それなりの学力が必要なのです。そして人間は無味乾燥な知識をたくさん詰め込むことは出来ないので、暗記教科にしても物語としてとらえたりイメージ化して記憶する必要があり、そのプロセスを楽しむことができれば学習効果は向上し、その楽しみ方が個々に異なるという点で受験勉強は意外と多様な営みであると私は思います。佐藤優のほうがそういったことについての理解があると感じました。

この二冊を比較して読むことができたことは教育について考えるいい機会になりました。

その2 芸術は最強の教育コンテンツだ(特に演劇は最高だ)

劇作家であり演出家である平田オリザは、大学入試において演劇を活用したら先進的な取り組みに成功したと本書で述べています。一般的な入試と演劇入試のどちらが大学入試としてふさわしいかについてはここでは論じませんが、ほぼ全員が合格できるという四国学院大学の入試は残念ながら一般論としては参考にならないと私は思います。少なくとも四国学院大学の入試について語るならば、入学後のカリキュラムにそれがどう活かされて結果として学生がどのように成長して行くのかについても言及する必要があります。しかしそこは詳しく触れられていないのが残念でした。

さらに疑問があります。著者が先進的だという演劇入試では自分の役割を理解し、チームに貢献することができるかどうかが問われているとのことですが、こうした能力は同調圧力に屈したり自身も圧力をかける多数派になりうるという危険と紙一重です。誰が何と言おうと自分はこう思う!といえる人間が過度に少ないことの方が今の日本にとって問題なのですから、むしろ枠からはみ出すような受験生こそが多様性のシンボルとなりうるし、さらには著者自身がそういう人間だったから今があるというエピソードと矛盾しはしないだろうかと私は感じてしまいます。

とはいえ、芸術が最強の教育コンテンツであることと、そのなかでも演劇は有力なツールであるということは私も強く同意します。先ほど述べたように人間や人生について学ぶには文学や哲学などの教養が必要で、それを読書で身に着けるためには読解力も身につけなければなりません。その価値はありますが時間もエネルギーも膨大に必要です。
私は”本”以外にもこうした教養に触れることができるツールとして芸術をもっと教育に取り入れるべきだと思います(本も芸術作品ともいえますが)。そのなかでも視覚だけではなく聴覚も使って感じることができる演劇や映画は効果が高いはずです(個人的には落語もいい)。まして観るだけでなく演じるとなれば、五感のすべてを使って感じ表現することを通じて人間、歴史、社会、道徳など様々なことを学ぶことができるのではないでしょうか。それが学習ツールとしての演劇の力です。

七尾は演劇教育の中心地となろう

ここで話は私の地元である石川県七尾市のことになります。
当市には「能登演劇堂」という素晴らしい劇場があります。仲代達也氏の無名塾に深いゆかりがあり、ロングラン公演を行うほどの演劇場です。
(ちょっと写真と動画で紹介します)

画像1

まさに七尾には最高の舞台があり、そして地元の七尾東雲高校には演劇科もあるんです。

ちょっとホームページが魅力的ではないのが残念ですが、生徒の皆さんは定期公演で一流の舞台に立ち熱演します。無名塾の塾生の方々との交流もあり、ここでしかできない貴重な経験ができているのではないかと思います。しかし、当然のことながら卒業生がみんな演劇の道に進むわけではありません。でもそれでいいんだと思います。

演劇を学ぶのではなく、演劇を通じて学ぶことが大切だからです。

この本を読んで、教育と演劇の関係や七尾でしかできない教育について考えることができたことについては、著者に感謝したいと思います。

最後に

本書の中でこれからの教育にとって重要なのは身体的文化資本だと述べられる部分がある。そのことに私も同意する。しかし、身体的文化資本を持たない人として安倍首相、麻生財務大臣、橋下元大阪市長があげられる。この三人が「努力」や「自己責任」について語ることに著者はイラっとくるらしい。気持ちはわからないでもないが、それを言っちゃあおしまいなのは著者も同じである。それなりの文化人であり知識人ならば感覚的な好き嫌いと自身の主張をごちゃまぜにして表現するのはよろしくない。本の中盤ぐらいにこのことが書かれているが、これ以降なんだか残念な気持ちで読むことになった。

徒然草のフレーズ『このきなからましかばとおぼえしか』を思い出してしまった、、、


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?