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金閣寺 三島由紀夫

Reading at Homeの記念すべき10冊目の紹介として、どうしてもこの本を読んで、自分なりの思いを記しておきたかった。
私は先日誕生日を迎え46歳になり、とうとう三島由紀夫が自決した齢を超えたことになる。私と彼を比べても詮無いことではあるが、唯一年齢において彼を超えることができた。その記念として読むならば、「金閣寺」だろうと以前から決めていたのだ。

物語は過剰なコンプレックスを抱えた少年が、金閣寺を究極の美としてとらえ。それと相対する日常を独白するという形式で物語は進む。金閣寺の美が自分や己を取り巻く世界の虚無に満ちた醜悪な日常からはまぶしすぎて、その存在を破壊しなければならないという思いと、金閣寺を自分が独占するためには燃やすしかないという考えが段々と主人公の少年の中で確固としたものになり、最後に金閣寺に火をつけるに至る。

地下深くどこまで続いているかわからない螺旋階段を下っていくように、溝口という主人公の少年の心は父母や老師、鶴川、柏木といった登場人物とのやり取りの中で揺れ動いていく。

父から「金閣寺ほど美しいものは無い」と教えられていたものの、実際に対面したときにはその実態は素直に究極の美として受け入れられるものではなかったと想像する(下の写真は焼失前の金閣寺)。つまり観念としての「究極の美を備えた金閣寺」と「実態としての金閣寺」の間に誤差があり、溝口は金閣寺で修行することになった当初からこの誤差を埋めるための解釈法を模索していた。なぜならば、この誤差が埋まらないことには溝口は精神の安定を保つことができないからだ。しかし、この誤差を埋めるには観念としての金閣寺を自分の中で破壊しなければならないが、それは自身の精神の破壊そのものであるからそれは溝口にはできない。

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そうしているうちに、京都にも空襲があるかもしれないという状況になる。永遠の存在であるはずの金閣寺と有限の存在である自分が戦火で焼かれるときに同じ地平に立つことができるという希望を溝口は見出す。実際にこの希望を得てから終戦までの一年間が金閣寺と最も親しく過ごした機関であると溝口は語る。しかしながら、結果として京都に戦火は及ぶことなく終戦を迎えこの希望も打ち砕かれる。その後に来襲した台風もまた金閣寺を破壊するには至らなかった。

戦争や天災という外的要因が破壊によって自分と金閣寺をつなぐことができなくなった以上、もはや金閣寺を自分自身で滅するほかないという考えにだんだんと溝口は傾いていく。そうする以外に溝口は生きていくことができない。

自分というコンプレックスの塊のような存在を作り出した両親を憎み、自分のコンプレックスをそこに存在しないかのように受け流して陽気に付き合ってくれる鶴川とも交わることができず、自分以上の身体的ハンデを気にも留めずむしろそれを強みにすら変える柏木や彼が連れてくる女性とも親密に離れない。金閣寺の住職にたいしては、嫌がらせや学校での不真面目ぶりを見せつけることによってわざわざ嫌われようとする。
こうした他人が自分に差し向ける優しさや温情をありがたいと思う気持ちが芽生えても、それをどうにか打ち消して「他人が自分の存在を認めないことが自分の存在の証明だ」というコンプレックスの極致へと自ら堕ちていく。まさに底の見えない螺旋階段を明かりを持たずに降りていく様を見るようだ。

しかし、三島由紀夫は溝口がどんなに卑屈に世界を解釈しようとしても、自然の美しさや社寺建築が持つ構造美を否定することは出来ないといわんばかりの表現で、彼の日常の風景や彼が訪れる寺院の構造を描き出す。若かりし頃に宮大工見習いとして勤めたときに足を運んだいくつもの寺院が登場するが、眼前にその威容が浮かぶようだ。かれの卑屈さと彼を取り巻く世界の美しさの対比にも惹き込まれていく自分がいる。

溝口が降りていく螺旋階段はどこまでも終わりがない。この螺旋階段の終わりには金閣寺放火というフィナーレが待っているはずだが、いつまでもそこにたどり着く気配がないのだ。したがって底にたどり着くためには階段を降り続けるのではなくいつか底の見えない穴に向かって飛び込むしかなくなる。そしてその踏ん切りをつけるためには旅や放蕩が必要になるのだと思う。溝口もまた柏木から金を借り、寺から家出した。舞鶴湾に向かい由良川から日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という自分の使命をあらためて心に刻むことになる。

終盤に私にとって印象的なやりとりがある。溝口には借金返済の手立てがないために、柏木は住職のところに催促に来て代わりに金を返してもらう。そのおりに柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反論する。このやりとりは溝口の決意が固いことを表しているとともに、三島由紀夫自身にも向けられている。究極の美である金閣寺と自身の誤差を埋められず金閣寺に火を放った溝口と、戦後日本と自分の理想の誤差というにはあまりに大きい乖離が埋まらなかったために自決した三島由紀夫は行為によって世界を変貌させようとした点で共通するように感じる。

方かの直前に、老師が学費のためにくれた金で五番町の遊廓に女を買いに行く。金閣を焼こうという決心は同時に自殺を伴うものでありうるべしという考えから。カルチモン(催眠薬)と小刀も買った。そしてその日が来た。
溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣寺の中で溝口は究竟頂で死のうとするが扉には鍵がかかっていてどうしても開かない。結局外に飛び出し山の方へ駆け出した。金閣寺が燃えて火の粉の舞う夜空を、膝を組んで眺めた溝口は煙草を喫み、ひと仕事を終え一服する人がよくそう思うように、「生きよう」と思うのである。

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火災による喧噪も、後日談も描かれてはいない。火の粉を眺めタバコを吸い「生きよう」と思うところで終わる。行為によって世界は変わらなかったのだ。溝口は計画的衝動によって飛び降りたものの、螺旋階段の行き着く先にはこれからも生きていくという平和で残酷な日常が残されているのみだったのかもしれない。もしかして柏木が言うように認識を変えれば溝口の前には希望に満ちた究極の美への”登り”の螺旋階段が表れていたかもしれない。ほとんどの人間にとってはそれが望みだろう。しかし、そうでない人間がいるからこそ世界は均衡を保つことができるということなのかもしれない。

こうして書いていても、おそらく三島由紀夫が描きたかったこと、表現したかったことのわずかばかりも理解しているかどうかあやしい。それでもこうした高尚な文学を読むことには意味があると思う。時間もエネルギーも普段の読書以上に必要とするけれど、文学は得体のしれない何かで必ずそれに応えてくれる。だからやめられない。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

最後に現在の金閣寺はこんな感じです。こんなに金色だと逆に破壊するほどのものに見えないのは私だけでしょうか。こんなに金色だったら溝口もきっと燃やそうと思わなかったでしょうね。逆に金ぴかで究極の美から遠くなってしまっていますもんね。観光地としては最高でしょうけど。

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