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ポストコロナの日本地図 第一回

新型コロナ対応のために緊急事態宣言が延長されて、私の日常生活も予想していたよりも大きく変化してしまっている。人と対面してコミュニケーションする機会が激減してしまった。学習塾の運営という仕事をしていることもあり仕事の上でも様々な対応が求められている。決して多くの中高生から意見を聞いているわけではないし、少人数であるがゆえに塾生たちの意見や想いには私の影響が少なからず反映しているとはいえ、中学生や高校生は大きな影響を受けている。とくに学習面において自宅にいる時間が長い状況でモチベーションを維持するのは困難だと私は感じる。学校は学習の場であるのみならずやはり子どもにとって重要な社交の場なのだと思う。社交は情報交換の場である以上に気力を醸成するための重要な位置を占めているということなのだと考えられる。

さて、こうした休業、休校、自粛、中止といった言葉にかなり慣れてきてしまっている私たちであるが、一方でこの”私たち”という言葉で新型コロナ危機を共有するのが難しいという側面もある。なぜといって世代や職業だけでなく家族構成や住んでいる地域など様々な要因によってこの危機のとらえ方が変わるのでからである。ちなみに私とは異なって地方に住む高齢者である私の両親は世の中の成り行きを心配していはいるものの生活のリズムに大きな変化はない。また飲食や旅行業のように大打撃を受けている業界もあれば、むしろ忙しくなって繁盛している商売もあるという。したがって、この状況を楽観視している人はあまりいないとは思うものの、悲観している度合いについてはかなり濃淡があるとみて間違いない。「大変だ」とか「困った」など言葉にしてしまえば同じでも、深刻さはずいぶんと違うのだ。

前回も書いたように、現在は新型コロナの特性や感染したいための対策等もかなり明らかになってきており、「耐える」フェーズから「踏み出す」フェーズに差し掛かっていることは間違いない。しかし踏み出すためには勇気が必要だ。ゼロリスクとなる日は永遠に来ない以上、どこかで踏ん切りをつけなければならない。ただしそのタイミングが早すぎれば再び新型コロナによる混乱が生じるかもしれないし、遅すぎたならば甚大な経済のダメージを被るだろう。まさに責任を伴った高度な政治判断が求められる次第である。
序盤の「耐える」フェーズにおいては第一に情報をオープンにすること、第二に組織やテクノロジーを動員し柔軟かつ効果的に対処すること、そしてこの二つをで国民の暮らしを支えるために政治家が信頼に足る物語を国民に届けることが必要であった。しかし、この点において日本政府は十分に機能しなかったわけだ。
しかし、失敗に懲りて次の展開へ踏み込むことに躊躇するのはやめてほしい。状況判断が困難であるのみならず、不確実性が高い未来に向けての政治判断はただでさえ難しいことは承知している、また、現状のように悲観の度合いが人それぞれ異なる場合には、悲観の度合いの高い人の声に政策決定が影響を受けがちになってしまいがちだ。この点から、政府がいわゆる出口戦略において踏み出すタイミングが遅れてしまうのでないかという危機感を私は持っている。現在政府の意思決定に最も影響を及ぼしているといわれている専門家会議においても感染症や医療に関わる人の声が大きく、経済や教育分野の専門家の声が政策に反映されているようには見えないことも不安だ。

ここで重要なことは、批判や誤解を恐れずに言えば専門家とは特定のことをよく知っている人である反面、特定の部分以外のことをよく知らない人でもあるということだ。したがって、感染や医療の専門家だけの話を聞いていても国民の暮らし全体についての総合的な戦略を練ることは出来ないのである。また、何度も書いているように感染対策や医療体制の維持と経済の機能回復のどちらが重要かというような二元論には意味がない、どちらも重要であり対策は並行して進められていかねばならない。しかしながら当然のこととしてこの両者は二律背反を起こすことも少なくない、だからこそ政治判断が必要になるのだ。

感染症対策の担当が経済再生担当大臣であったために、初期段階で厚労省などの感染対策分野との連携が不十分になっていた可能性は否定できない。しかし、経済機能回復のためにこの分野で陣頭指揮を執るにあたっては最適なポジションでもある。敵は自粛ムードで過度に収縮してしまった経済のマインドと財政出動を渋る財務省だけだ。国民は積極財政に基づく積極的な政策パッケージを求めているはずだ。したがって、いまこそ西村大臣が先頭に立ってやるべきことをどんどん進めてほしいと私は考える。

私はもともとMMT理論に基づいて減税と積極的な財政出動を新型コロナの以前から求めてきた。この方向性は現在において一層正しいと考えている。基本的には国が財政出動して実体経済における利回りを大きくすれば金融経済から資金は流入し国民の所得向上に好影響を及ぼす。この効果については金融政策の及ぶところではない。第一に国民に金を配ることで危機をしのぎつつ、新しい国土形成のために国が投資の方向性を打ち出していくのがよいのではないかと考える。
過密な都市を形成することは基本的に高効率化するためにメリットが大きかった。過密な都市における住環境を担保するための環境政策はほぼ成功し、かつてのように大気汚染等で健康を害するなどということは都市においてはなくなってきた。満員電車やヒートアイランドなど過密そのものがもたらすデメリットはあるものの、それを受け入れて余りあるメリットが過密な都市にはあったのだ。
しかし、フェーズは変わった。大げさに言えば三密がNGだということになれば、もはや東京をはじめとする大都市で生きていくことそのものがNGだということになる。感染症や大地震という危機はいつか来るかもしれないものではなく、いつ来てもおかしくないものとして向き合わざるを得なくなった。それが、この新型コロナがもたらすであろう過密なエリアに住んでいる人へのメッセージとなるだろう。

これを前提として、国は過密と過疎のバランスをどうしていくかについての新しいグランドデザインを打ち出さざるを得ない。いまのままでは新型コロナの第二波、第三波だけでなく未来の不確実性に対して都市は耐えられない。そして、同時に地方の自立も求められることになるであろう。機能分散型の国土形成には地方が自立していくことが必要だ。これまでのような国の下請けとしての機能しか持たないのではなく、まさに自治力が問われることになる。今回の新型コロナへの対策にあたって何人かの知事が存在感を増しているのことからもわかるように、事件は現場で起こっているのであり、日本をひとくくりにしてすべてに網をかけるのではなく地域ごとにカスタマイズした政策が求められるのは当然なのだ。そして、それがこの新型コロナへの対応によって一層明らかになったのだ。

国から地方へと機能が分散していくことは、県から基礎自治体へ、基礎自治体からさらに小さい地域へと機能が分散していく流れを生み、そしてそれは最終的には個人の自立を促すことになるはずだ。つまり新型コロナは私たちに新しい価値観とライフスタイルを手にせよと語りかけている。それにこたえることができなければ、ポストコロナの新しい日本地図を描くことは出来ないということだ。

ここで思い出されるのは、福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という言葉である。

これは、国民一人ひとりが独立した人間であって初めて、国として独立できるという意味だ。 人々が自分で考え行動できること、つまり「一身の独立」によって、「一国の独立」が可能になる、それは学問の有無にかかっていると福澤は主張した。新型コロナの危機は未来を担う子どもたちに一層の学びを要請しているし、われわれ大人もまた自らが学ぶことによってそのことを子どもたちに伝えていく必要がある。こうした危機を乗り越えることで個人も地域も国もしなやかで強靭な存在へとバージョンアップしていくはずだ。

私は塾生たちに「コロナで大変だったけどあの時の学びがあるから今の自分があるといえるような学びを今しなければならない」と語っているが、この国もそれぞれの地域も「あのコロナ危機を乗り越えたからこそ今の繁栄がある」ということができるように勇気をもって「踏み出し」ていかなければならない。

第二回に続く。

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