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新型コロナとオールドメディアの復権

ポストコロナの日本地図 第4回の後編についてはしばらくお待ちいただくとして、本日は番外編としてある本を読んだ感想を交えて、新型コロナとオールドメディアの関係について書いてみたいと思う。なおここでいうオールドメディアとは主に新聞やテレビのようなSNS以前のからあるマスメディアを指している。
何となく書店で久しぶりに書架にから西部邁が書いた本を手に取った。先日『評伝 西部邁』は読んだがこれは高澤秀次によるものなので、西部邁本人によるものはちょっと久しぶりだ。

あまり大きな声では言えないが、新型コロナへの対策については行き過ぎた自粛も含めて日本社会は過剰反応していると私は考えている。当然のこととして未知の危機に対する反応は過剰になりがちではあるものの、すでに新型コロナの感染力や感染後の対応については様々なことが明らかになりつつあるなかで、少なくない日本人がいまだに過剰反応していると私はみている。

たしかに政府の対応は遅きに失した面もあるし、不十分な対応もあった。しかしながら冷静に日常生活を眺めれば通常の暮らしに戻ることができるような地域や分野において現在も過剰な対策がなされてはいないだろうか。加えていうならば、もしも政府が十分な対応をしていたとしても新型コロナへの恐怖心が小さくなったとは思えないし自粛警察とよばれるような人たちの旺盛な活動も展開されていたに違いない。それはメディアの戦略によるところが少なくないと私は感じている。

断っておくが、様々なところで行われている個々の対策が無駄だと言っているのではない。少なくともビジネスにおいては顧客のニーズに応えることは必須である以上、感染対策をしているか否かは売り上げに関係してくる。また、実際にそれらの対策により感染拡大が防がれた面もあるに違いない。こうした取り組みは新型コロナから顧客や従業員を守るだけでなく、自企業の存続にも関わることだろう。それは私とて同様であり、わたしもまた自塾において感染対策の取り組みをしている。

私が指摘したいのは、こうした一連の感染対策のための政府や自治体の施策や企業の取り組みを社会全体がヒステリックに求め、それが不十分と感じるや相手が政府であれ役所であれ、はたまた個人であれ攻撃的にさえなるという行動の背景にあるムードの醸成において、オールドメディアが影響しているということだ。なかでもテレビの頑張りは異常であると私は思う。

西部邁の「マスコミ亡国論」は昭和が終わり平成が始まる頃に書かれた本である。サブタイトルにもあるように、『日本人を煽り続けるマスコミ世論というばか騒ぎ!』は平成が終わり令和の時代に移り変わっても一向に収まる気配はない。いや、いったんはオールドメディアはSNSの台頭によって主要メディアの座を奪われそうになっていた。少なくともその可能性はかなり高まっていたといっていい。これはテレビや新聞のみならず広告代理店なども大きな危機感を抱いていたはずだ。

テレビはYouTubeにその座を奪われ、新聞はSNSにとってかわられるのではないかという危機感は、視聴率の低下や新聞購読数の低下などで数字にも表れてきたはずだ。本来であればマスメディアには果たすべき役割として、質の良い情報を責任をもって届けるという使命があった。しかし視聴者や読者がマスメディアに対して情報の正確さや分析の精度ではなく、スピードと刺激を求めるようになるにつれて、マスメディアの情報発信もそれに対応すべく番組や紙面を構成してきた。

しかし、WEB上でやり取りされる情報よりも早く情報伝達をするのは不可能であるのみならず、良識という良い意味での制約がかからないSNS上での情報はマスメディアのそれに比べてさらに刺激にあふれていた。その結果としてSNSが台頭してくるのは当然の成り行きだったのだろう。若い人たちの家では新聞もとらずテレビもないというのは珍しくない。

こうした事態に対応すべく、オールドメディアが取った対応はテレビ報道のワイドショー化と新聞報道の週刊誌化であろう。とくにテレビがひどいと感じるのは私だけではあるまい。お笑い芸人がMCを務めるのみならず、お笑い芸人が政治経済について論じている番組はいくらでもある。こうしてオールドメディアはさらに大衆に迎合するという戦術を用いて延命しようとしたのだ。しかし、こうした戦術はこれからの若い世代に受け入れられる可能性は低いと私はかんがえている。オールドメディアはこのまま衰退していくのではないかという論調は決して弱くはなかった。

そんなオールドメディアにとって幸運なことに(私たち国民にとっては不幸なことに)令和が始まってすぐに「新型コロナ禍」が勃発した。これはただの刺激的なニュースというわけではなかった。今回の新型コロナは私たちに”ステイホーム”を強いたのだ。そう、少なくない日本人はテレビの前にいる時間が(しかも日中の)長くなった。普段は学校に行っている子どもたちまで毎日テレビの前に長時間座っていられるのだ。もちろん新聞を読む時間も長くなっている。

こんな時がいつまでもとまで言わなくても、それなりの期間続いてほしいとオールドメディア側の人間たちは考えているに違いない。この彼らにとってのラッキータイムを延長するために必要なことは「国民の冷静を取り戻さない」ということである。新型コロナの感染者数に一喜一憂し、政府の不手際を追求し、合間に芸能人のスキャンダルを挟んで、また新型コロナの危機を煽る。こうしたことを続けている限り、視聴者や読者の興奮が収まることはない。東京で感染者が50人出ているという数字は交通事故や他の疾患に比べてどの程度リスクが高いのか。新型コロナへの恐怖心のために同じように重要なことが見えなくなってしまってはいないかといった議論を通じて、冷静さを取り戻させようとする気配はまるでない。なぜならオールドメディアにとって自粛やステイホームほどありがたいものは無いからだ。

オールドメディアが自身の復権のために新型コロナに対する危機感を煽っているというふうに眺めてみると、なぜこのことにかくも大きな時間とエネルギーを割いて放送し紙面を埋め続けるかがよくわかるはずだ。

テレビも新聞も自由や平等や民主主義を疑わざる戦後的観念として金科玉条のように掲げてきた。このことにスタンスの右も左もない。かなり手垢がついてきて大衆に飽きられ、戦後からテイクオフしたいと考える一部の日本人からまっとうな懐疑が寄せられているこの言葉をオールドメディアは押し入れの中からまたもや引っ張り出してきたのだ。
新型コロナが私たちの自由を奪うといっては叫び、政府や自治体の施策にはじめから完璧なものなどないのに新型コロナ対応が(給付金やマスクが手元に届くタイムラグなど)不平等だと叫ぶ。そしてさらに国会の機能不全は民主主義の危機であると叫ぶのだ。新型コロナの危機を戦後的観念の文脈で報道すれば、国民はそれをストレートに受け止めて、不安になる。そしてさらに刺激的な情報を求めてテレビや新聞をみるというスパイラルをつくりだし、オールドメディアは一時的にかもしれないが復権を果たすことができている。それがいまの状況である。

ワイドショーとは取るに足らない小さなことを”ワイドに(大きく)”して見せる番組のことだ。見る人がその情報はワイド化してあるというバイアスをもって見る分には娯楽として楽しめるが、あたかも報道番組のようにとらえてしまうと真実や事実をそこから知ることは困難になる。もちろんSNSも玉石混交なのでSNSから情報を得るためにもリテラシーが必要なのだが、テレビや新聞から情報を得るにもリテラシーが必要だということだ。「言論の公器」としての役割を果たしている情報発信は決して多くはないのだから。

結局のところ、そうしたリテラシーを意識する間もないほど連続して視覚聴覚にうったえつづけるオールドメディアと距離をとること。これもまた個人ができる重要な新型コロナ対策であると私は考えている次第である。


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