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前略 市長候補殿 三通目

N市においてはいよいよ候補予定者もかたまり、今週末あたりからは事務所開きも行われていくらしい。第三の候補を求める声もあるらしいが、このタイミングではなかなか現実的ではないと考えられ、選挙の構図はおおむね見えてきている。新聞紙上では、あたかも代理戦争のごとき描き方がされている感があり、候補予定者以外の名前が乱舞しているが、大切なことは候補予定者本人の資質と姿勢であることは論を待たない。
なぜならば、これまでの経緯や党利党略がいかにからもうとも、市長とは市民全員の暮らしを預かる代表者であり、その人の決断、行動、言葉はこれまでの歴史の評価、現在の市民の暮らし、そしてまちの未来に直結しているのだから。
少し不遜な物言いに聞こえるかもしれないが、市民の皆さんにおかれては「誰に頼まれた」とか「誰が付いている」とかいうことではなく、「自分の子や孫が笑顔で暮らすことができる仕事ができそうな人」を選んでいただきたいと思います。

そんな思いを込めて三通目の手紙を書くことにする。

公約は基本あてにならない

いきなりこんなことを書いてしまうと衝撃を受けるかもしれませんが、これはとても大切なことではないでしょうか。新型コロナのことを抜きにしたとしてもこの変化の速い現代社会において来年の今頃のことを正確に予測するのは不可能でありましょう。そのなかで、任期4年の政策を事細かに約束することは誰にもできはしません。今現在の正解は来年の不正解になりうるし、それ以前の問題として選挙時の公約は有権者へのリップサービスの面もあるでしょうから、実現の際には克服困難な課題があって立ち往生することも大いにあると私も理解しています。さらにいえば、前回の選挙の争点や公約を覚えていて、それについての評価を詳細にできる有権者は多くはありません。公約と言うものは”半分以上”は空手形になるのが関の山です。それでも有権者との約束を公約という形で示さねばならない心中をお察しするところです。

まずは公約よりもコンセプト

公約といいマニュフェストといいそれらは市政運営のための手段レベルことを指します。すでに書いたように状況に応じて手段は変化するので、いくら効果的に見える手段を積み上げてもいざというときには役に立たないかもしれません。むしろそうなる可能性は決して少なくありません。
一方で、コンセプトや基本姿勢、目標やビジョンといったものは状況が変化してもそう揺らぐものではないでしょう。というか、それがぶれていては何も決められはしません。前回の手紙では実務力と構想力の話をしましたが、かりに実務力型のリーダーであったとしてもコンセプトや基本構想を示して選挙に臨むことは最低限のマナーであると私は思うのです。
その際にありがちなこととして「未来」「夢」「希望」「活力」などという言葉が躍る場合がありますし、それ自体を悪いことだとは思いません。ただし、こうした言葉を必要としない地域はどこにもないのですから、こうした言葉はどこででも使うことができるしどこの地域にも当てはまることになりましょう。だから本当はそれだけでは足りないのです。

「未来」や「夢」といった言葉をN市の固有性とどのようにマッチさせるかという困難な言葉選びをして、それをもって市民の心を揺さぶることができるかどうかがカギではないでしょうか。

例えとして挙げるならば、かつてN市には「市民が主役のまちづくり」という言葉があった気がします。N市はその実現のために条例を作り、憲章を制定し、地域づくり協議会を全市に配置しました。コンセプトと手段を一体として市政に落とし込むということはそういうことなのではないかと私は考えているのですが、いかがでしょうか。
この取り組みが継続発展し、市民がN市の主役として様々なことに参画できる状況が実現したかどうかについて私は評価しかねますが、こうした勢いを感じた時期もあったことは事実でありましょう。

まずはコンセプトや基本構想をお示しいただかないことには、有権者は比較のしようがないということです。

コンセプトの次は柔軟な対応のための対話チャンネルの約束を

コンセプトを示すことは確かに重要なのですが、それ以上に実は重要なことがあるのではないかと申し上げておきたいと思います。それは市政のトップが市民とどのような対話のチャンネルを持つかということについての約束をしていただきたいのです。

そもそもまちづくりのコンセプトは独断で打ち出すことができるようなものではないという仮説も成り立ち得ます。したがってまずはまちづくりのコンセプトや方向性を市民とともに紡ぐという公約も十分にありえるでしょう。そしてコンセプトにせよ基本構想にせよ決めたら終わりではなく常に見直しや更新が必要なものであることは論を待たないため、市民とともに紡ぐというプロセスに終わりはありません。

さらには、まちをよくするための取り組みは市役所だけの専権事項ではありません。いかに多くの市民が具体的な取り組みに関わるかが成否を分けるのである以上、対話や説得がこれまで以上に求められるはずです。

考えてもみてください「お宅の市長はどんなことを考えておられるのですか?」とよそのまちの人に質問されて、「実はね・・・」と嬉しそうに対応しつつ、さらにそれを受けて自分はこんなことしているという市民がたくさんいるまちには勢いがあるにちがいありません。また、「実はね・・・」の後に出てくる説明が説明している当事者の意に沿わないものであったとしても、リーダーの打ち出す方向性が市民に共有されているだけでも十分だと私は考えます。逆に「さあ、何考えているんですかねぇ・・・」ということになるのであれば、リーダーは市民の共感を得られておらず、そのまちに市政をもって活力を生み出すことは困難になると思われます。

したがって、これまで以上に様々なツールを通じて市民と直接やり取りすることができる現代においては、対話のチャンネルをどう担保するかという約束は候補者のスタンスが表れる重要なテーマではないでしょうか。

タウンミーティングを定期的にする。SNSを通じて情報発信をする。頻繁にまちをあるく。さまざまな場所に赴いて言葉を交わす。その手法は様々でしょう。またこれは対市民だけでなく、庁内においても同様だと思われます。リーダーとスタッフの対話の充実は市役所を働き甲斐のある職場にすることを通じて、さまざまな効用を市民に提供することになるのですから。

くれぐれも注意してほしいのは一部の人間の言葉だけしか耳に入らない環境を対話に置き換えることは出来ないということです。五箇条の御誓文の第一条は「万機公論に決すべし」であります。全てのことは公論によって決めるべきだという意味で、公論は口論ではありません。公共空間における対話無くして何も決めてはならないというのは150年以上前の先人が新しい時代に最も必要だと提示したことであり、今もそれは変わらないのです。

前にも書きましたが、5万人余りのすべての市民の声を直接聞くことは不可能ですが、一人でも多くの市民の声に耳を傾け、一人でも多くの市民に思いを届けることはリーダーの重要な役割です。かつてとは異なり対話の扉を開き目や耳に相当する機能を極大化するためのテクノロジーは発達しました。技術的に不可能だという言い訳はもう通用しません。さらに言えば、こうしたテクノロジーを用いなくても、市民の声を聴く機会はいろいろなところにこれまでもありました。したがって、表明すべきは市民との対話への意志であり姿勢についてありましょう。

対話のためにどのような機会をつくり、どのような姿勢でそれに臨むのか。どうか有権者の皆さんにお示しください。決して選挙の時だけ足を運んで耳を傾けるふりをするようなことが無きよう、お願い申し上げます。

最後に、可能であれば時評をもって価値観を示してほしい

最後にいささか個人的なお願いを書いておきます。

候補者の人となりを知ることこそが有権者の判断基準として一番重要なことだと思います。日々生起する様々な出来事に対してどのような価値判断をされているのか、その積み重ねこそ私たちが最も知りたいことです。市政と関係のないことほどむしろ重要であるとさえ思います。

少なくとも政治経済の分野における様々なテーマに対するご自身の考えを明らかにしてほしいのです。これはとても勇気のいることだと思いますが、しかし自身の考えをオープンにし。その行動原理に基づいて誠実に意思決定を行うことの積み重ねこそが、反対勢力までも含めた市民の信頼を得る道なのではないでしょうか。

市民の皆さんは、自分のまちのリーダーがどんなことを考えて目の前の課題に取り組んでおられるのかについて、関心があります。選挙の際にはその関心は極大まで高まりますので、その関心にご自身の言葉で答えていただけるように、ここは個人的に願い申し上げます。

私たちは候補者の公約ではなく、思いのこもった言葉を待っています。そして選挙の後もそのやり取りが続いていくことを心から望んでいます。




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