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武器としての「資本論」 白井聡

はじめに(私が資本論と距離をとってきた言い訳)

資本論をちゃんと読んだことがあったり、まして大学で資本論やマルクスについてちゃんと学んだという人はどれくらいいるのだろうか?そう多くはないはずだ。私も頭の片隅にはあるものの向き合ったことがない分野だ。
私が資本論やマルクスについて学んでこなかった理由は主に二つある。
第一に資本論はなかなかにして難解で手強い書物だからだ。しかしながら、面白いのは資本論の翻訳版については何種類かあって資本論を経済学の書とみるか思想の書とみるかによって訳が変わるという面もあるらしい。著者も指摘しているように、このことは資本論の射程の広さを逆に表しているのかもしれない。とはいえ、私も何度かチャレンジしたものの読破に至ったためしはない。
第二に私の世代的な問題もある。私が大学生になった1993年といえば91年のソビエト連邦崩壊や92年にフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」が日本で出版された直後であり、自由主義と資本主義の勝利が高らかに宣言されたころであった。資本論や共産主義(そもそもこれを同一視している時点で勉強不足だったのだが)について、歴史が敗北の烙印を押したのだから学ぶに値しない。この風潮は難しい勉強は極力したくなかった大学生の私にとって最高の言い訳だったということだ。

今回も前もってこの本を買おうと書店に行ったわけではなく、ここしばらく何度か書店に通うたびに気になっていたこの真っ赤な本をそろそろ手に取ってみようかという、いわば気分で購入したに過ぎなかった。しかし、先日noteの別のマガジン「高橋正浩の政治放談」に新自由主義への懐疑論を書いた直後に内田樹の「ローカリズム宣言」に次いでこの本を読むことになったのは運命的な出会いともいえる。

はっきり言ってよい本だと思う。とはいえ、資本論自体が難しいので、その解説本も読みやすいとは言えない。そこでこの本の見どころや読み方について私なりに書いてみたいと思う。

はじめに14講から読みましょう!

 私が考えるに、第14講にはなぜこの本を読まなければならないのかという問いに対して、日常における「食」と関連付けて非常にわかりやすく示されているからである。イギリスの食事がおいしくないのは有名な話だが、いつからまずくなってしまったのか、なぜそうなってしまったのかについて資本主義が社会を包摂していくプロセスと関連付けて書かれている。イギリスとは少し状況を異にするが、ニュージーランドにおいてかつては頻繁に食べられていた羊を昨今は食する機会がめっぽう減り、代わりにあまりおいしいとは言えないブロイラーが代替品として食卓に並ぶようになったというエピソードも紹介されている。この部分を読んでこれは日本の近未来を暗示しているという危機感を抱かないようであればその先を読む意味はないと思うので、ここでこの本とお別れしたほうがいい。
そしてその先に書かれていることは、私たち(少なくとも私はそうだが)がこの国の未来や、自分を取り巻く社会に対して、希望を持ちにくく閉塞感にさいなまれている理由について、それが新自由主義(ネオリベラリズム)のダークサイドによるものであることが暴かれている。

階級闘争という言葉は今では死語になってしまったが、格差社会という言葉は頻繁に耳にするようになった。格差社会を是正するために、”見えざる神の手”に期待しても無意味だ。格差の是正のためには、やはり歴史がそうしてきたように戦いを挑む必要があるし、それはある意味で階級闘争としか表現しようのない戦いではないかと思う。今なぜ階級闘争なのかという問いに対する最終的な著者のアンサーは、第14講のP276「階級闘争のアリーナとしての感性」の部分にある。

最初の一分はこうだ。
生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、実はそこに階級闘争の原点があるのではないかと感じます。

私たちの労働に対する対価の基準を私たち自身が「自分のスキルと労働時間によって決定するものだ」と定義し、「私はスキルがないから価値が低いです」と自分を貶めてはいないだろうか?それは新自由主義の価値観に侵されて魂までもが資本に包摂されてしまった状態であると筆者は指摘する。その通りだと思う。確かに新自由主義が社会のみならず、人々の感性にまで深く根を張ってしまった今日、生き抜いてある種の豊かさに到達するためには、私が以前紹介した故瀧本哲史氏が訴えたような「武器」が必要だ。しかし一方でその武器は自分と本当に身近な存在までしか幸せにできない。連帯の先にあるコミュニティ全体の幸福をもたらすには至らない。そのことを瀧本氏もまた熟知しているからこそ彼の言う武器がゲリラ戦を戦うツールであると繰り返し述べている。

この事態を乗り越えるために最初にしなければならないこととして筆者は「人間の基礎価値を信じることです。」と宣言する。そしてそのあとに続けていう。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだと確信することです。つまり豊かさを得る。私たちは本当はその資格を持っているのです。」
食事の話に戻すと、このままでは私たちが当たり前だと思って毎日食べている食事が贅沢だといわれ、極論でいえばカロリーメイトでも生きていけるだろ?という話になりかねない。新自由主義の極点にはそんな世界が待っているとい著者は主張しています。

次は第9講を読むといいでしょう

第14講を読むだけでは、彼の言葉は腑に落ちないかもしれない。もしかしたら妄言と読めるかもしれない。でもよく読めば、共産主義者がブルジョアに噛みつくときに唱えるいつもの言葉遣いとは違う”温かさ”があるように感じるはずだ。確かにそうだな、、、と。
とはいえ、資本主義や新自由主義が歴史の終わりに勝利宣言して以降これを懐疑的に見ること私たちは慣れていない。そして何より少なくとも物質的豊かさにおいて共産主義国とは比べもにならない果実を私たちが手にすることができたという経験が、著者の主張を受け入れることを妨げるかもしれない。

しかし、20世紀後半において資本主義が新自由主義へと昇華する段階において、つまりフォーディズム型資本主義からポストフォーディズム型資本主義へと移行する中で、格差社会とよばれるような厳しい階級社会に再び私たちを巻き込んできたという経緯が、第9講を読むことで明らかになるだろう。
自動車産業の父として有名なヘンリー・フォードは労働者から搾取するだけでは産業の成長に限界があることに気づき、労働者もまた消費者であることに注目する。労働者の賃金を上昇させつつ、自動車の価格を下げていくことによって中流階級を分厚いものにすることが強い産業の基盤になるとして、そのことを実現してきました。このことは資本家と労働者の双方にウィンウィンの関係を構築し、資本の増大と労働者の豊かさを両立してきた。しかしこのフォーディズム資本主義はオイルショック以降に勢いを失い、日本もまたスタグフレーションの中であえぐことになった。
しかしそれでも資本主義における資本を増幅したいという意志は当然やむことはなく、その対応として新自由主義が導入されることになる。
新自由主義が目指したものは何か、それは過去に(フォーディズム資本主義において)労働者に与えた既得権益の剥奪だと著者は言う。様々な規制緩和を通じて労働者の権益を取り上げて、労働分配率を引き下げることによって新たな余剰価値を生み出すということなのだ。

フォーディズム資本主義の感性系の一つが終身雇用をはじめとした日本型経営であり、そのことで日本は世界経済の主役に躍り出ることができたという過去の栄光。その後のバブル崩壊による自信喪失。そしてそもそも日本人特有のイデオロギーに対する懐疑的な姿勢の欠如などがあいまって、新自由主義はこの日本において深く根を張ってしまっていることが個々で明らかになるだろう。

かつてボローニャ紀行を書くための旅の途中、イタリアを旅する列車の中で井上ひさしが「イタリアは国貧しくとも民豊なり。我が国は国富めるとも民貧しきかな。」とつぶやいていたと、その時随行していた宮本茂樹氏から先日伺った。まさに日本はその時点から事態を悪化させてはいないだろうか。

そしてあとは第1講から読んでください

ここまで私の紹介文を読んでいただいてまずはありがとうございます。
とても示唆に富んだ内容なので、ぜひとも多くの方々に読んでいただきたいという思いで書いたつもりです。
しかし、著者が伝えたいことを「資本論」との関連で理解するためにはやはり本書をはじめから読んでいただく必要があると思います。「商品と商品化」「包摂」「消費者」「二種類の余剰価値」「本源的蓄積」などのキーワードについて理解を深めることで著者の主張が正鵠を射ていることがよくわかるでしょう。

かつての階級闘争と著者がいう階級闘争は戦う相手を異にしています。かつてのように倒すべき資本家はすでにいません。資本はすでに人格を失っており、富裕層と言われる人たちもまたある意味で自己増幅を志向する資本の奴隷なのかもしれません。
だからこそ、誰かを敵視するのではなく、自身の基礎的価値に目覚めるところから、毎日の食事を大切にするところから始めようと述べていると私は思うのです。

繰り返しになりますが、本当にたくさんの人に読んでほしいと思います。この本を読めば見城徹が「読書という荒野」において「一度も左翼的思想に傾倒したことない人間は薄っぺらい」と断言する理由がわかります。彼もまた現代社会が新自由主義に侵されて、人間の基礎的価値を棄損していることに気が付き警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。

地方に住む意味を考える

新自由主義に対抗するにせよ、新しい階級闘争に踏み出すにせよ、その手始めとして一番最初に始めることは「地方で暮らす」ということだと私は思います。祭礼をはじめとした伝統や慣習の体系が暮らしの中に今もなお豊かに残っていること、農業に携わる人が一定の割合で暮らしていて里山里海の恵みに触れることができること、氏神をまつり先祖の墓に手を合わせることで祖先や子孫とのつながりを感じることができること。地方での暮らしには新自由主義で置き換えることができないものが少なからず残っています。
これらのすべては人間の基礎的価値によって支えられ、人間の基礎的価値を棄損してはならないということを教えてくれるはずです。

しかし、その地方もまた新自由主義によって侵されつつあるのです。それは二重の意味で進行しています。

第一に、地方は国全体で観ればどうしても搾取される側にあるということです。出生率が全国最低の東京に人もカネも巻き上げられてきました。地方の中にも多少の格差はあるものの、地方において経済的に豊かな立場にある人とてさらに上位の企業に搾取され全体としてみれば富める1%に入ることはできません。好きな言葉ではありませんが、資本主義社会における負け組であることを地方は常に突きつけられてきました。そのことで地方は自信を喪失しています。
第二に、地方に住む我々も資本主義や新自由主義に包摂されてしまいまいつつあります。先ほど述べた地方の資源は一度壊してしまったり譲り渡してしまったら元に戻すのは簡単ではありません。というよりほぼ不可能であると言えます。にもかかわらず私たちは自分たちの資源や資産に価格をつけて換金しようとしてはいないでしょうか。著者が人間の基礎的価値を重視するように私は地方の基礎的価値を重視したい。この両者はほとんど同じ意味であるといってもいいと私は考えます。

政治放談でも述べたように新型コロナの影響は新自由主義とスクラムを組んで地方の暮らしを破壊するかもしれないのです。都市部の人が密を避けて地方に流れてくるなどとのんきなことを言っている場合ではない。もしそうなれば地方の資源や資産は一層意識的に守らなければならなくなるはずです。

自分の大切なものを守るためにはもっと学び、さらに実践し、そして同志と呼べる仲間を募らなければならないとあらためて感じさせられる一冊でした。政治のリニューアルやテクノロジーの導入、組織構築そして教育分野の実践など人間の基礎的価値と地方の基礎的価値を守るために自分のできることを全力でやる。その点で悔いのない人生を歩いていきたいと、小さな声で宣言して終わりにします。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。




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