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僕は西部邁に育てられた

初めて西部邁を観たのは、大学生の頃の「朝まで生テレビ」だったと記憶している。不思議なことに田原総一朗以外の出演者をほとんど覚えていない。もっと言うと、そこでどんな議論が戦わされており、西部邁が何を語っていたのかすら覚えていないのだ。言っていることはほとんどわからないが、とにかくすごい存在感のおっさんだなというのが第一印象だった。
その後たまに観る「朝まで生テレビ」ではいつも小林よしのりとけんかしていたように記憶している。どんなことで対立していたのかも覚えていないが、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」で悪意をもって描かれていた西部邁の絵もよく覚えている。20年ほど前なのに漫画の力はすごい。

私が政治に関心を持つようになったのは高校生のころからだろうか。高橋家は私の祖父が自民党員で右寄り、父は教職員ということもあり左寄りのスタンスだった。相反する政治姿勢を持つ親子だから家では政治的な会話などというものは無いのだが、子どものころの記憶として自民党の機関紙が家に定期的に送られてきていたこと、祖父の膝の上で日曜日の早朝に時事放談を観させられていたこと、一方で母が祖父に内緒で親戚の人に選挙のお願いなんかをしていたことをかすかに覚えている。ちなみに祖父は両切りのSHINSEIを吸っており、それが「新生」という漢字名であることを三島由紀夫の潮騒を読んで知るのはずいぶん後の話になる。言葉に表されることは少なかったけれど、高橋家には複雑な政治的空間があったこと、そしてそれ以上に祖父や父が周りの面倒ごとを引き受けつつ他人のためにできることにエネルギーを費やしている様を見ていたことがおそらく政治に関心を持つきっかけだったのだろうと思う。

大学では政治に関することどころかすべての分野においてほとんど勉強らしいことはしなかった。私の友人の半分以上は留年していたから、4年で卒業できたのは田舎の高校を出たてのまじめさで1年生の時に多めに単位を取っていたのと、優しい仲間が手を差し伸べてくれたからだと思う。そんな大学生に西部邁が何を語っているかなどわかるはずもなかったということだ。

そして、大学を卒業した私は宮大工見習いとして大阪へ行くことになる。朝は早いが夕方6時には宿舎に戻りそのあとはすることがない。私の部屋にはテレビもなかったので、本を読むことしかすることがなかった。そこで、西部邁と再び出会うことになった。『大衆への反逆』と『経済倫理学序説』を読んでみるも、全く理解ができなかった。内容が頭に入ってこない。でもなぜか西部邁の文章は私をとらえて離さなかった。根拠はないけど彼の言葉の中に自分が必要としている何かが含まれていることだけは確信があったのだと思う。そして、雑誌「発言者」と巡り合う。

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「発言者」は1994年から2005年までの11年にわたり発刊されていた。私が定期購読していたのは後半の5年ほどではないかと思う。あの当時はこれが書店に普通に並んでいたかと思うと西部邁のエネルギーはすごかったんだと思わされる。久しぶりに写真撮影のために本棚から取り出してみると、創刊十周年の座談会に沢木耕太郎が出てるじゃないか!(深夜特急を今読んでる最中なので感動!)私はこの発言者の中の西部邁のコラムや対談が好きだった。これを読んでいるうちにこの人は偏屈だけど優しい人なんだなと感じるようになり、そして彼の保守思想や大衆批判、反米ナショナリズムについて少しは理解できるようになってきた。そして、すこしずつ自分もまた真の意味で保守的であろうと思うようになった。保守政治家としての私の思想的な背骨をつくってくれたのは紛れもなく西部邁である。ちなみに私が自民党に入党を決めた理由は「憲法改正を実現できる唯一の保守政党」だからである。だから、私が考える自民党のあるべき姿と異なれば異を唱えるにやぶさかではない。そして今の自民党は保守政党といえるかどうかすら怪しいと私は感じている。まあ、すでに党の役職などないので何ら発言の機会は無いのであるが。

私が大きな挫折の中にいた二十代半ば。大阪から故郷の能登島に帰ってきてひきこもるように過ごしていた時に、ふと西部邁に会って話を聞きたいと思ったことがあった。彼の言葉を聞けば何かが変わるのではないかと思ったのだろう。発言者の出版元の住所を頼りにアポイントもなく家を訪ねた。残念なことに西部邁本人は外出中であったが、娘の智子さんが無礼な私を招き入れてくれた。あのときもしも西部邁本人がいたなら「くだらないことで悩んでいるんだね。過ぎてしまったことはしょうがないじゃないか。」と言われたかもしれない。したがってむしろ親身に私の話を聞いてくれたのが智子さんでよかったのではなかったかと後になって思ったものだ。何冊かの本を西部邁の自宅で購入できたという喜びが少し私を前向きにしてくれた。

私が西部邁から学んだことはたくさんあって、その一つ一つについてはこれからも折を見て書いていこうと思う。私が晩年の西部邁の文章にあまり興味をひかれなくなってしまっていたのは、私自身が変わってしまったからのか彼の表現が変わってしまったからなのかはわからないままでいたが、もう一度一冊ずつ読み返してみようと思っているところだった。そんな折に高澤秀次による「評伝 西部邁」という本があることを知った。西部邁のルーツが北陸にあること。北海道での少年時代から東大での学生運動。大学教授になりそれを辞して批評家・評論家として高度大衆化社会へと堕ちていくこの国に警鐘を鳴らし続け、自裁をもって人生を閉じたこと。様々な本で西部邁は人生の一連の出来事を何度も語っていたし、自裁の顛末はニュースにもなっていたからそのほとんどを私は知っていたが、それでもこうしてもう一度彼の人生を追ってみることは自分を振り返ることでもあって味のある体験となった。

おそらく私は西部邁が表現したかったことの十分の一も理解できていないと思う。でもまだ私には時間が残されているから、もう一度彼の言葉と向き合ってみようと思う。予測不可能な時代だからこそ保守の眼差しをもって時代を眺め、これまで以上に勇気を奮い平衡感覚を研ぎ澄ませて歩を進めていかなければならない。誰かに勧めるような類の本ではないが、読まずにはいられない本もある。私にとって「評伝 西部邁」はそんな一冊だった。

西部先生「そんな下手な文章で俺を語るのはやめろ」って怒らないでね。

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