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日本の政治には「想像力」が足りない

 新型コロナウイルスはそれぞれの国が抱える弱点をことごとく攻めてくる。その影響は社会を揺るがすものであるがゆえに、個人の健康へのリスク以上に国民それぞれの精神を蝕みつつあるといっていい。
 我が国において相対的に感染者(陽性判定者)が少ないのは不十分な点もあるかもしれないが、もともと欧米に比べて社会的距離をとって生活していることや衛生状態の良い暮らしが影響しているのではないだろうか。とはいえ、今後の感染の広がりに関しては私の予想の及ぶところではない。

 そうした国民性による(であろう)感染抑制とは反対に、コロナ対応におけるこれまでの取り組みから見るに、この国の政治のレベルは国民が期待していたものでなかったということが明らかになったのではないだろうか。新型コロナが明らかにした我が国の弱点はまさに”政治の機能不全”なのだ。「どうしてこんな残念な対策しか打ち出されないのか?」という多くの人たちに私なりの考察を届けたい。長文ですがご一読ください。

 はじめに述べておくと、少なくとも国政レベルにおいて多くの政治家が抱えている問題は「想像力の欠如」であると私は見ている。

 なぜ想像力の欠如が起きるのか

 ではなぜ政治家は想像力を失ってしまうのだろうか。それは教養不足と情報源の偏りによるものだろう。

 国政選挙のような大きい選挙ではないが私も何度か選挙を戦ってきた。選挙で最も大切なことは市民の声に耳を傾けつつ、自分の思いを届けることである。私が自分の選挙において「人生100年時代 豊かな暮らしのある未来」というテーマを掲げたときには、「高橋さん、100年の人生より明日の暮らしでいっぱいいっぱいなんです」という声もたくさん頂いた。私が手を差し伸べたいと思うのはそういう本当に困っている人たちだった。だから一人の市民と向き合うときはその明日の暮らしをどうするか、自分のできることは何かをしっかりと伝えなければならない。一方で、そうした個人の日々の暮らしへの不安のもっと奥にある、ふるさとや次世代への責任感をそういう個人の意見の中からくみ取っていくことも重要だと思ってやってきた。投票する人は『亡くなった先祖が大切にしていたものを残したい。』『まだ投票権のない子どもたちに恥じない投票行動をしたい。』と顕在的にであれ潜在的にであれ考えている。傲慢な考えかもしれないが、選挙を通じてそれをくみ取ることができなければ選挙によってえらばれるのは欲望の代表者に過ぎなくなるのではないだろうか。

 しかし、ここで困難が生じるのだ。投票に込められたこうした思いはあくまでも自身が解釈するしかないが、本人が言葉にした内容と真意が逆であったり、国柄や地域性という文脈に隠れていたりするからだ。だからこそ政治家には教養が必要なのではなかろうか。政治とはまさに「市民意志」ともいうべき『声なき声』に耳を傾ける力なくして成り立たない。かつてのように日々の暮らしの中にある作法や慣習からそれを経験できる時代ならば無自覚に感じることができたであろう伝統の断片すら、現代社会では便利な生活に押しやられている。そうである以上は現代において”声なき声を聴く力”は人間の存在と正面から向き合うことでしか獲得できない力であり、哲学や歴史や文学、芸術といった教養からしか得られないはずだ。

 さらに厄介なことに当選後から次の選挙戦までの間は情報源が相当に偏ってしまう。国会議員ともなれば日々業界団体からのロビー活動と地元首長や地方議員からの要望陳情に追われる。もちろん地元や業界の発展のみならず、自分の選挙のためにもそれぞれの要望を叶えることは政治家の重要な役割なのだが、それぞれの要望の総体が国の理想と一致するとは限らないという困難が待ち構える。その傾向は現代において一層高まっているはずだ。かつてのように国民のニーズが比較的単一に近い「物質的豊かさ」を求めている段階から「豊かさ」の概念そのものが多様になり、そこに「持続可能性」まで求められているからだ。国政を預かる人は「力強く綱渡りをする」というような困難な仕事を強いられる。”理想への奉仕”と”要望への従属"という二つ間でバランスを取り、しかも強い足取りで進まなければならないというこの困難な仕事を支えるための「信念」もまた教養からしか生まれてこない。
 政治家にこそ「読書感想文」の宿題が必要なのだ。

 想像力が欠如すると何が起きるのか

 政府が打ち出した残念なコロナ対策の中でもっとも象徴的だったのは「全世帯マスク2枚」という取り組みだろう。政権を擁護する方面から「それでもないよりはマシ」という援護射撃があったものの、「200億円かかるという話だったのが実は466億円かかる」という新たな報道に加え、菅官房長官が記者会見で「代替手段は無い」と答える段に至ってはさすがに援護射撃を打つ人すら脱力しているのではないかと想像する。

 報道によればこのマスク配布を提案したのは経済産業省の官僚だということらしい。ここでこの提案者を批判するのはよろしくないと私は考える。なぜといって、官僚の仕事は分析することであり、分析するとは情報をもとに(正しくではなく)合理的に考えることといっていい。官僚や省庁が合理的に考えたことが正解とは限らないなどということは枚挙にいとまがない。合理的に計算すれば正しい政策が打ち出されるという合理主義(官僚主義)に立脚した政治が必ず失敗するということについては、ソ連をはじめとする社会主義国家の破綻によりすでに証明済みだ。官僚は良くも悪くもつじつま合わせのスキルにおいて超優秀な集団なのだ。今回は彼らの合理的計算に基づいてマスクの提案がされたに過ぎない。批判されるべきはそれを良しとして実行に移した政治家のほうということになる。

 つじつま合わせというのは悪い意味だけでいっているのではない。もしも政治家がとある前提を示せば、官僚は必ずそれを実現するための政策パッケージを相当短期間に仕上げてくるだろう。例えば二か月後に消費税をゼロにせよと言おうが、ベーシックインカムを整備せよと言おうが、こうなったら新学期を秋にして世界標準にしようと指示しようが、彼らに不可能はない。したがって、超優秀な官僚を使って国民を豊かにするために、とくに与党が論じて導き出すべきは「官僚に示す正しい政策の前提(ビジョン)」である。それに加えて官僚が打ち出してきた政策を社会実装するときの「国民への説得」こそが政府与党の重要な役割だ。ここで重要なのは説明責任ではなく説得責任だということ。国民が納得することに主眼を置くべきで、説明したからそれでよしということにはならない。また、説得には信頼が必要であるから、その時に用いる言葉が何かを隠蔽していたり後になって検証不能であったり、まして「責任はありません」などということになれば国民がその政策を受け入れて豊かになどなりえない。

 日本の政治には「国民の暮らしがいまどのような状況にあるか?」「自分の声は国民にどのように届いているのか?」こうしたことを想像する力が決定的に欠けているのではないかと私は感じるのだ。アベノミクスの効果を喧伝するときの記者会見とここ最近のそれとでは大きく違うのは、安倍首相がこの事態にどう対処するべきかという想像ができず、自信喪失に陥っているからに違いない。これは政府与党だけではない。野党もまた残念ながら国民の暮らしや自分たちの取り組みが国民にどう映っているかの想像ができていない。もはやまともなことを発信する野党党首は不在なのでメディアにも登場することさえ稀になってしまった。相手にされていないのだ。さらに言えば「日本経済は緩やかに回復している」とずっと言ってきた日銀も同じ。株価や失業率、GDPなどといった数値だけしか見ていないからそうなる。ましてそれらの数値さえ恣意的に解釈したりあろうことか改竄したりしてきたのだからあきれるばかりだ。

 もう一つ重要なことを書いておくと、おそらく官僚のうちの相当の割合の人間が東京圏(もしくは大都市圏)に生まれ、東京の大学を出て職務についている。おそらく地方で(それも田舎で)暮らしたことのある人間はわずかだろう。そういう人たちには田舎の暮らしの実情が想像できないのはやむを得ない。おそらく外国のことのようにしか理解できない。そこで地方出身の国会議員の出番だが、彼らとて生活のほとんどを東京でするようになったのちに想像力を働かせることができなければ、地方の実情と本人の認識は乖離し始める。そうでなければ様々な政策において都市の理論がまかり通り地方がおざなりになっている現状への怒りが表明されてしかるべきだがそんなことはほとんど耳にしたことがない。

 どこもかしこも想像力不足でいっぱいなのだ。

 想像力はデザインの源泉だ

 私は政策はデザインなのだと思い始めている(気づくのが遅かったけど)。デザインは相手が不都合に感じていることや社会に存在する課題を想像し、それを有形無形のサービスで解消することである。例えば今回のコロナへの経済対策のために経産省からでている資料は数十ページに及ぶが、本当に困っている人はあれを読んで理解することすらできない。あの資料にある支援で人を救うことはできても、あの資料では人を救うことがきないということが想像できないのではないだろうか。とすれば既出の経済対策は優れたデザインであるとは言えない。

 かつて、シンガポール政府が多くの移民が不満を持っている理由がわからず、その対応に苦慮していたことがあった。優れた雇用の場や様々な移民支援メニューがあるにもかかわらずだ。その解消のために数多くのインタビューを重ねた結果、その不満が生ずるのは「入国手続きの書類がウエルカムではない」という理由が上位だった。様々な不安を抱えて新しい土地にやってきた外国人が無機質な書類や不愛想な職員を前にして言葉も通じない状況にある時、その人がシンガポールという国に希望を抱くことは難しい。そこでシンガポール政府は書類をはじめとして手続に関していかにシンガポールが移民を快く受け入れようとしているかが伝わるものにデザインしていったそうだ。その結果として不満はかなり解消されたという。

 コロナ危機のなかで不安を抱えている国民は、まさにシンガポールに入国しようとしていたかつての移民と同様に、自分たちが置かれている状況の不確実さからくる不安に押しつぶされそうになっている。そして目の前に出された資料は無機質で理解しがたく、メディアから届く政治家のメッセージが自分の心の支えとはならない状況だ。いったいどうしろというのだ!という声なき叫びが届いているのだろうか。おそらく届いていない。

 もはや過去形でいいのではないかと思うのだが、かつて想像力のある政治家として期待されていた小泉進次郎氏も今ではどこで何を語っているのか見聞きすることは少ない。今思えば彼の言葉は彼の想像力の産物だったのではなく、その状況にマッチしていたにすぎなかったのだろうか。彼が本物の想像力の持ち主であるならば、彼の耳に届く国民の声なき叫びに応えるために彼もまた何かを語ってくれてもよさそうなものだが、少なくとも私が知る限りなるほどと唸るようなコロナ対策が彼の口からは聞こえてこない。COP25での彼の言葉がポエムだと批判されたが、ポエム(詩)とは本来は意味のない言葉ではなく意味以外をそぎ落とした言葉なのだから、今こそ本物のポエムの出番なのに。

最後に

 想像力が求められるのはなにも政治家ばかりではない。というか、我々の代表である政治家の想像力は有権者の想像力によって選ばれる以上、結局のところ問われるのは私たち有権者のほうなのかもしれない。
 今回のコロナ危機を乗り越えるための対策は今の政治家にゆだねるしかない、国会のみならず自治体においてもぎりぎりの判断、決死の現場対応が進められている。とくに現場で自身の危険を顧みず戦っている皆さんには敬意しかない。私たちはこの一連の対応を忘れず学ばねばならない。
 次回の選挙においては政治家の声に耳を傾け、自身の想像力をはたらかせて国や地域のために想像力にもとづくデザインの力を十分に発揮してくれる人を選ばなければならない。東日本大震災後にどの程度国会議員が入れ替わったのか詳細は分からないが、少なくとも今の政権の中枢にいる方々はあのころからおそらくアップデートしていない。震災は予測不可能だったが、今回に限っては予測不可能だったとは言い切れないし、少なくともつい先日まではオリンピックは予定通り開催するといっていたのだから。これが悪夢でないならいったい何が悪夢だと私は強く言いたい。

 遅きに失している面があるとはいえ、与野党がスクラムを組んで今からでも想像力に裏打ちされたデザインの力を感じることができるような政策を打ち出してくれることを願うばかりである。そして、自分の健康は自分で守るが暮らしは政治が支えてくれるという安心感を私たちに届けてほしいと切に願うばかりである。

長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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